第97話 君の笑顔がクセになっているんだ
静かな部屋の中に、ヘッドホンからの音漏れが微かに聞こえてくる。
凛は目を閉じ、両手を胸の前でギュッと組んで、音の世界へと没入していった。
僕はただ、彼女の横顔をじっと見つめていた。
曲が進むにつれて、凛の閉じた瞼が微かに震え、やがてその目尻から、ツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は涙を拭うこともせず、ただ静かに、僕の紡いだ音を受け止めている。
やがて、曲が終わりを迎え、ヘッドホンの中に無音が訪れた。
凛はゆっくりと目を開け、ヘッドホンを外して机の上に置いた。
「……どうかな。思い切って余計な音を全部削ぎ落としてみたんだ。ピアノと君の声だけで勝負する、一番シンプルな形に」
僕が恐る恐る尋ねると、凛は潤んだ瞳で僕を見つめ返し、大きく頷いた。
「……すごいわ。すごく、綺麗」
「本当?」
「ええ。……前のバージョンも素敵だったけど、今のは全然違う。奏多のピアノが、私の歌声を優しく、でも力強く包み込んでくれているのがわかるわ」
凛は涙を指先で拭い、ふわりと最高に美しい笑顔を見せた。
「飾らない、ありのままの奏多の想いが、痛いほど伝わってきたわ。……私、この曲なら、私の全部を懸けて歌える」
「よかった……本当に、よかった」
僕が安堵して胸をなでおろすと、凛は椅子から立ち上がり、僕の正面へと回り込んできた。
そして、僕の太ももの間に滑り込むようにして立ち、僕の首に両腕を回してギュッと抱きついてきた。
「奏多……私、この曲すごく好き」
耳元で囁かれたその声は、限界までドロドロに溶けきった、甘ったるい響きを帯びていた。
「ちょっ……凛、急にくっついたら……」
「いいじゃない。……こんなに素敵な曲を作ってくれたんだもの。たくさん甘やかしてあげるわ」
凛は僕の胸に顔を押し付け、すりすりと猫のように頬を擦り寄せてくる。
彼女の髪から漂うフローラルなシャンプーの香りが、僕の理性を容赦なく削り取っていく。
「奏多のピアノが、私のことを優しく包んでくれてるみたいで……たまらないわ♡」
「り、凛……心臓に悪いから、少し離れて……」
「嫌よ。奏多の心臓の音、すごく速くて……私のこと大好きなのが伝わってきて、嬉しいもの」
凛は僕の抗議など全く聞く耳を持たず、さらに強く抱きしめてくる。
彼女の柔らかな体温がパーカー越しに伝わり、僕の心拍数は確かに跳ね上がっていた。
「ねえ、奏多。ご褒美、ちょうだい?」
潤んだ上目遣いで僕を覗き込んでくる彼女の瞳。
その視線に射抜かれ、僕は完全に降参するしかなかった。
「……ご褒美って、何をすればいいんだよ」
「決まってるでしょ? ……私を、いっぱい撫でて♡」
凛のあざとすぎるおねだりに、僕は苦笑しながらも、彼女の艶やかな黒髪にそっと手を伸ばした。
「んふふ……」
ゆっくりと髪を梳くように撫でてやると、凛は目を細めて幸せそうな声を漏らした。
「……奏多の手、すごく温かいわ」
「君が甘えん坊すぎるだけだよ」
「奏多の前でだけだもの。……ねえ、もっとぎゅってして? ほら、ぎゅーって」
「はいはい」
僕は言われるがままに、彼女の華奢な背中に腕を回し、優しく抱きしめ返した。
密室の中で、僕たちの甘い時間はどこまでも続いていく。
この奇跡のような現実に、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ねえ、奏多」
しばらく僕の胸の中で甘えていた凛が、ふと顔を上げて真っ直ぐに僕の目を見た。
「この曲のタイトル、もう決まってるの?」
「タイトル……いや、まだ考えてなかった」
僕が答えると、凛は少しだけ思案するように視線を巡らせた。
「そう。……じゃあ、栞にもこのデモ音源を送って、三人で話し合いましょ。きっと栞なら、この曲にぴったりの映像のアイデアと一緒に、素敵なタイトルを考えてくれるはずよ」
「そうだね。結城さんにも早く聴いてもらいたいし」
僕は片手で凛の腰を抱き寄せたまま、もう片方の手でスマートフォンを操作し、結城さんも入っているグループチャットに完成した音源のデータを送信した。
『タラ:三曲目のデモ、完成しました。聴いてみてください』
送信ボタンを押した直後。
『ダチA:お待ちしておりましたわ。すぐに確認します』
夜遅くにもかかわらず、結城さんからの返信は相変わらず秒速だった。
「ふふっ、栞もきっと驚くわね。あんなに装飾過多だった曲が、こんなにシンプルで真っ直ぐな曲に生まれ変わったんだもの」
「ああ。……でも、ここからが本当の勝負だ。このメロディに、君の本気の歌声が乗って初めて、この曲は完成するんだから」
僕が真剣な表情で告げると、凛も表情を引き締め、力強く頷いた。
「ええ。任せておいて。……私の全部を懸けて、奏多の想いを歌い上げてみせるわ」
僕たちの三曲目となる、極上のラブソング。
期待と、高鳴る心臓の音を抱えながら、僕は腕の中にいる凛の温もりを、さらに強く抱きしめた。
夜遅くにもかかわらず秒速で返ってきたメッセージに僕と凛が微笑み合っていた、次の瞬間。
ピンポーン!
一階から、けたたましい玄関のチャイムの音が響き渡った。
「えっ……? こんな時間に誰だろう」
「宅配便にしては遅すぎるわね」
時刻はすでに夜の九時を回っている。
僕たちが顔を見合わせていると、一階から「はーい! 私が出るー!」という妹の元気な声が聞こえた。
そして、ドタドタと階段を駆け上がってくる足音と共に、防音室の扉が勢いよく開かれた。
「お兄ちゃん! またお客さんだよ! 今日はどうなってるの⁉」
「またって……誰が来たんだよ」
僕が尋ねるより早く、妹の背後からスッと優雅な足取りで現れたのは、少し息を切らし、薄手のカーディガンを羽織った私服姿の結城 栞だった。
「……こんばんは、お二人とも。夜分遅くに申し訳ありません」
「ゆ、結城さん⁉ さっきチャットで返信をくれたばかりじゃ……」
僕が目を丸くして驚くと、結城さんはふうっと小さく息を吐き出した。
「ええ。ですが、送られてきたデータを受信した瞬間、わたくしのクリエイターとしての直感が激しく警鐘を鳴らしたのです。……お二人が二週間も悩み抜き、極限まで削ぎ落として完成させた音源。それをスマートフォンのスピーカーや、一人きりの部屋で聴くなんて無粋なことはできないと」
「だからって、走ってきたのか……?」
「当然ですわ。わたくしは今すぐ、お二人がその音を創り上げたこの空間で、直接その熱量を浴びたかったのです。……さあ、早く聴かせてくださいな」
結城さんの圧倒的なパッションと行動力に、僕と凛は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
もう少しで完結です。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




