第94話 迷い込んでしまってもう終い
季節は十月も半ばを過ぎ、朝夕の風にはっきりとした秋の冷たさが混じるようになってきた頃。
僕の部屋には、いつものように僕一人の姿があった。
「……違う。これじゃない」
僕はパソコンのモニターを睨みつけながら、大きなため息と共にキーボードから手を離した。
スピーカーから流れていた、作りかけのデモ音源を一時停止する。
現在、僕たち『Polaris Echo』は次なる三曲目の制作に突入している。
一曲目が再起を、二曲目が激しい感情の衝突を描いたのに対し、三曲目のテーマは『極上のラブソング』だ。
あの日、凛の不器用で真っ直ぐな鼻歌からインスピレーションを得て、メロディの根幹となるコード進行自体はすぐに出来上がった。
しかし、問題はそこから先だった。
楽曲を一つの完成された作品へと昇華させるための『アレンジ』の段階で、僕は分厚い壁に激突していた。
モニターの隅に表示されている日付を見る。
凛のハミングからあのメロディが産声を上げ、結城さんに太鼓判を押されてから、すでに二週間以上の月日が経過していた。
机の端には、徹夜作業の痕跡である空のコーヒーカップがいくつも並べられている。
「奏多、無理しないで。少し休んだら?」
最近の凛は、僕の部屋にやって来るたびに心配そうに眉を下げ、甘い匂いと共に僕を休ませようとしてくれる。
彼女の優しさは途方もなく嬉しいが、アレンジが進まない焦燥感は、日に日に僕の胸の中で重さを増していった。
「……どうすればいいんだ」
僕は頭を掻き毟り、デスクに突っ伏した。
今まで僕が作ってきた曲は、どれも自分の中にある劣等感や焦燥感、世界への不満といった『負の感情』を原動力にしたものばかりだった。
だから、マイナー調の暗いメロディや、不協和音スレスレの不安定な音の重ね方なら、いくらでも引き出しがあった。
だが、今回の曲は違う。
凛への溢れんばかりの愛情と、圧倒的な幸福感から生まれたラブソングだ。
そんなもの、僕のようなひねくれた自称凡人には作った経験がなかった。
無理に明るい雰囲気にしようと、キラキラとしたシンセサイザーの音色を足してみたり、ストリングスを華やかに重ねてみたりしたが、どれもこれも嘘くさくて、薄っぺらいものになってしまう。
まるで、自分の身の丈に合わない派手な服を着せられているような、強烈な違和感。
「メロディの良さが、過剰な装飾のせいで死んでしまっていますわ」
昨日も結城さんから、厳しいダメ出しを食らったばかりだ。
かといって、凛に相談すれば「奏多の作った音ならなんでも好きよ」と言われてしまうのが目に見えている。
凛の愛情は最高に嬉しいが、今の僕が求めているのは、楽曲を客観的に評価してくれるシビアな耳だった。
「誰かに、フラットな意見をもらいたいな……」
結城さんでも凛でもない、僕の音楽を純粋な『音』として聴いてくれる人間。
そう考えた時、僕の脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。
隣の家に住む、太陽のような幼馴染。
中学生のころ、僕が『アルタ』としてこっそり曲を作っていた時、彼女はいつも隣の家から漏れ聞こえてくる僕の拙いピアノを、文句ひとつ言わずに聴いてくれていた。
僕が音楽を辞めると言った時、誰よりも悲しんでくれた彼女。
花穂なら、今の僕の迷走している音を聴いて、何か素直な感想をくれるかもしれない。
そう思った時には、スマートフォンを手に取り、花穂にメッセージを送っていた。
『奏多:今、時間あるか? 少し相談したいことがあるんだけど』
数秒後、すぐに既読がつき、返信が飛んできた。
『花穂:あるよっ! どうしたの? 奏多から誘ってくるなんて珍しいじゃん!』
『奏多:近くの公園で少し話せないか。持っていきたいものがあるんだ』
『花穂:わかった! 今すぐ行くね!』
僕は作りかけの音源データをスマートフォンに移し、有線イヤホンをポケットに突っ込んで家を出た。
◇◇◇
秋の涼しい風が吹き抜ける、近所の小さな公園。
ブランコと滑り台があるだけの静かな場所で、僕はベンチに座って花穂を待っていた。
「奏多ーっ‼」
数分も経たないうちに、花穂が小走りで駆け寄ってきた。
休日の彼女は、少しゆったりとしたオレンジ色のパーカーにデニムのショートパンツという、持ち前の明るさを引き立てるような活発な服装だった。
「お待たせ! 相談ってなに? もしかして、また数学教えてほしいとか⁉」
「逆だろ。お前が僕に教わる側だ」
「あははっ、冗談だよ! それで? どうしたの、こんな真面目な顔して」
花穂は僕の隣にちょこんと腰を下ろし、不思議そうに首を傾げた。
柑橘系の爽やかなシャンプーの香りが、ふわりと鼻をかすめる。
「実は……新しく作ってる曲が、アレンジに行き詰まっててさ。花穂に、ちょっと客観的な意見をもらいたくて」
「えっ……あたしに?」
花穂は目を丸くして、自分を指差した。
「ああ。中学生のころから、お前はずっと僕の曲を聴いてくれてただろ。だから、変に音楽的な知識とかじゃなくて、ただ直感的にどう思うかを聞かせてほしいんだ」
「奏多……」
花穂の表情が、パッと明るく輝いた。
彼女は嬉しそうに目を細め、胸の前で両手をギュッと握りしめる。
「うんっ! あたしでいいなら、喜んで聴くよ! 奏多がまた曲のことであたしを頼ってくれて、すっごく嬉しい!」
「恩に着るよ。……じゃあ、これ」
僕はスマートフォンの画面を操作し、有線イヤホンの片方を花穂に手渡した。
花穂はそれを受け取り、右耳に装着する。
「流すよ、思ったことを言ってくれればいいから」
「分かった」
僕も左耳にイヤホンをつけ、再生ボタンを押した。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




