第93話 泡沫の中で見る顔は綺麗だ
「でも、ラブソングって言っても色んな形があるだろ? 片思いの曲とか、失恋の曲とか」
「ダメよ。片思いも失恋も絶対に嫌」
凛は即座に否定し、僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
「じゃあ、どんなラブソングがいい?」
「そうね……例えば、ずっと孤独だった女の子が、世界で一番大好きな男の子に見つけてもらって、その人の全部を独り占めしたくてたまらない……そんな、少しだけ重たくて、甘い曲がいいわ」
「それって……」
「私の気持ち、そのままよ。……奏多への想いを、歌にしてあげる」
凛の言葉の破壊力に、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
「……それは、すごく心臓に悪い曲になりそうだ。でも……」
僕は言葉を区切り、深く息を吐き出した。
そして、自分の胸の奥に渦巻いている、どうしようもない不安と葛藤を口にした。
「……正直に言うと、僕にそんな甘いメロディが書けるのか、自信がないんだ」
「え?」
凛が不思議そうに顔を上げ、僕の目を見つめてくる。
「今まで僕が作ってきた曲は、どれも暗くて、どこか焦燥感に満ちていて、不器用な感情を無理やり音にしたようなものばかりだ。過去の曲も、一曲目も、二曲目もそうだった」
僕は両手を見つめ、ギュッと拳を握りしめた。
「でも、純粋で、温かくて、甘いラブソングなんて……今まで一度も書いたことがない。……無理に明るい曲を作ろうとしても、どこか嘘っぽくて、薄っぺらいものになってしまうんじゃないかって……怖いんだよ」
過去のトラウマが完全に消えたわけではない。
自分の才能への根本的な疑念が、まだ僕の心の隅にへばりついている。
そんな僕の弱音を聞いた凛は、少しだけ目を伏せ、やがて優しく微笑んだ。
「……奏多は、本当に臆病ね。でも、そんなところも大好きよ」
凛は僕の腕からそっと離れると、今度は僕の正面へと回り込み、僕の太ももの間に滑り込むようにして、僕の膝の上にゆっくりと跨ってきた。
「ちょっ……凛⁉」
「いいじゃない。……ラブソングを作るんだから、もっと恋愛チックにしないとダメでしょ?」
凛は悪戯っぽく微笑みながら、僕の首に両腕を回し、顔を近づけてきた。
制服越しに伝わる、彼女の柔らかな体温と、狂おしいほどに速い心臓の音。
「……これじゃあ、曲作りに集中できないだろ」
「あら、そんなことないわ。……ねえ、奏多。あなたが今まで暗い曲しか作れなかったのは、あなたがずっと一人ぼっちで、孤独だったからよ」
凛のひんやりとした指先が、僕のうなじを優しくなぞる。
「でも、今は違うでしょ? あなたはもう、一人じゃないわ。……ほら、目を閉じて。私の体温を感じて」
僕は凛の言葉に従い、ゆっくりと目を閉じた。
視覚が遮断されると、凛の吐息の熱と、胸元から伝わる鼓動がさらに鮮明に感じられる。
僕の首に回された腕の柔らかさや、膝の上に感じる、彼女の確かな重み。
「これが、今のあなたの現実よ。私と一緒にいる、温かくて、甘くて、どうしようもなく幸せな世界。……無理に明るい曲を作ろうなんて思わなくていいの。今、あなたが私から感じているこの気持ちを、そのまま音にすればいいだけよ」
大好きな人が、僕の腕の中にいて、僕のすべてを求めてくれている。
僕の心の中にある「好きだ」という想いを、凛が優しく包み込んでくれる。
「それでも、まだメロディが浮かんでこないなら……私が、奏多にヒントをあげるわ」
凛の囁くような声が耳元に響いた。
そして、凛は僕の首に腕を回したまま、小さな声で、そっと鼻歌を歌い始めたのだ。
「んん〜、ん〜……♪」
耳元で囁くような、甘くて、少し不器用なハミング。
それは凛が今、僕への溢れんばかりの想いを、そのまま音符に乗せて紡ぎ出したような、優しくて温かい旋律だった。
「……凛? 今のメロディ……」
僕が目を閉じたまま尋ねると、凛は僕の首筋に頬を擦り寄せながら、嬉しそうに囁いた。
「ふふっ。私の中に浮かんだ、奏多への想いよ。……どうかしら? これなら、あなたのメロディの助けになる?」
彼女の歌うそのメロディは、驚くほど素直で、不器用なまでに真っ直ぐだった。
ひねくれたコード進行なんてない。
ただ『好き』という感情だけが、そこには詰まっていた。
「……すごく、優しくて、甘いメロディだ」
「でしょ? だから、奏多も難しく考えなくていいの。……私のこの想いに、あなたの音を重ねてみて」
僕はそっと目を開け、膝の上に凛を乗せたまま、少しだけ体を捻ってキーボードに手を伸ばした。
凛が紡いでくれた不器用で真っ直ぐなメロディに寄り添うように、両手を広げ、ゆっくりと鍵盤に指を落とし込んでいく。
ポロロン、と、柔らかく温かい和音が部屋に響いた。
優しく包み込むような、甘いメジャーコードの進行。
僕が今まで作ってきたどんな曲よりも、素直で、真っ直ぐな音。
「……これ」
僕が弾き始めた和音を聴いて、凛が、驚いたように息を呑んだ。
「どうかな。……君の歌ってくれたメロディに導かれて、世界が鮮やかに色づいていくような……そんなイメージなんだけど」
僕が静かに鍵盤を叩き続けると、凛は目を閉じ、僕の弾くピアノの音に合わせて、再びそっとハミングを重ねてきた。
「んん〜、ん〜……♪」
凛の透き通るような歌声が、僕の紡ぐ和音にぴったりと寄り添い、優しく溶け合っていく。
ラブソングなんて書いたことのなかった僕の中に眠っていた、人を愛する甘い感情が、彼女の鼻歌によってついに鍵を開けられたのだ。
「……すごい。すごく、良いわ」
ハミングを終えた凛が、潤んだ瞳を開けて僕を見つめた。
「奏多……私、この曲、絶対に最高のものにしてみせる。私のありったけの『好き』を、全部このメロディに乗せるわ」
「ああ。僕も、君の歌声が一番輝くように、全力でアレンジするよ。……僕の『好き』も、全部込めて」
僕が真っ直ぐに想いを伝えると、凛は顔を真っ赤にして、僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
「っ……もうっ、奏多のバカっ。そういうことサラッと言うから、また心臓がうるさくなっちゃったじゃない……!」
「お互い様だろ」
僕は凛の華奢な背中に腕を回し、そっと優しく抱きしめた。
「……ねえ、奏多。ラブをもう少しだけ高めない?」
「えっ……?」
僕の胸の中から、凛が甘く震える声で囁いてきた。
彼女の唇が、僕の首筋に微かに触れ、ちゅっ、と小さな水音を立てる。
「り、凛……!」
「……誰も見ていないわよ。栞が帰ってくるまで、私をたくさん甘やかして」
溶けきった凛のおねだりに、僕の理性が耐えられるはずもなかった。
完全なる密室で、僕たちは音楽を作る手をごく自然に止め、互いの体温と匂いに溺れるように深く密着していた。
ガチャリ。
不意に、何のノックもなく部屋の扉が開かれた。
「……はぁ」
入り口に立っていたのは、カフェから戻ってきた結城さんだった。
彼女は手にしたテイクアウトのコーヒーカップを持ったまま、わざとらしく、そして心底呆れたような深いため息を吐き出した。
「ひゃっ⁉」
「うおっ⁉」
僕たちはバネ仕掛けのおもちゃのように、勢いよく体を離した。
「……わたくし、一時間ほど席を外しただけですのに。部屋中がむせ返るような甘ったるい空気で満たされていますわね。これは換気が必要かもしれませんわ」
結城さんは眼鏡の奥の瞳を細め、冷ややかな視線を僕たちに向けた。
「ち、違うんだ、結城さん‼ これはその……あのだな……」
「な……何でもないのよ‼」
結城さんは呆れ顔でコーヒーを机に置くと、腕を組んで僕たちを見下ろした。
「……まったく、少し目を離せばすぐにこれです」
結城さんの容赦ないダメ出しに、僕たちは小さくなって俯くしかなかった。
「で? 三曲目の内容とやらは、十分にまとまりましたか?」
「え、ええ。すごく良いメロディができたのよ。奏多に弾いてもらったら、すごく……」
凛がもじもじとしながら言うと、結城さんは少しだけ表情を和らげた。
「ほう? では、その甘ったるいメロディとやらを、わたくしにも聴かせていただけますか?」
「わ、わかった。今弾くよ」
僕はまだ少し震える手でキーボードに向かい、先ほど凛のハミングに合わせて紡ぎ出したばかりの、甘く優しいメジャーコードのメロディを弾き始めた。
凛もそれに合わせて、そっとハミングを重ねる。
部屋の空気が、再び柔らかく温かいものへと変わっていく。
結城さんは目を閉じ、静かにその音色に耳を傾けていた。
◇◇◇
やがて弾き終わると、結城さんはゆっくりと目を開け、ふっと口角を上げた。
「……なるほど。これは、一本取られましたわ」
「どうかな……?」
「ええ。甘すぎるだけかと思いきや、その根底にはお互いを深く想い合う、とても純粋で力強い芯があります。これまでのイメージを、良い意味で完全に裏切る極上の曲になりますわ」
結城さんの太鼓判に、僕と凛は顔を見合わせ、明るい笑顔を浮かべた。
「でも、完成まではまだまだ道のりが長いですわよ。これからは、イチャイチャする時間を削ってでも、この曲を最高のものに仕上げていただきますからね」
結城さんが悪魔のような笑みを浮かべ、容赦ないスパルタ指導の幕開けを宣言する。
「覚悟しておいてください、灰原さん、凛」
「お手柔らかにお願いします……」
「ふふっ。望むところよ」
期待と不安、そして高鳴る心臓の音を抱えながら、僕たちの新しい挑戦が本格的に始まろうとしていた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




