第91話 五線譜にただひとつ鳴る音
水族館での初めてのデートから、数日が過ぎ、僕たちの関係は、あの日を境に明らかに、そして劇的に甘さを増していた。
そして、僕と凛が親しい関係であることは、すっかりクラスの公認……というか、半ば諦めのような形で受け入れられつつある。
昼休みや休み時間になると、凛は自分の窓際の席から立ち上がり、ごく自然な足取りで僕の席へとやってくるようになった。
「奏多。次、移動教室よ。一緒に行きましょ?」
「ああ、わかった。ちょっと準備するから待ってて」
学年一の美少女にして、かつては誰とも関わろうとしなかった『氷の令嬢』が、僕にだけはこんなにも柔らかく、甘い微笑みを向けてくれる。
その事実だけでも周囲の男子生徒たちにとっては信じがたい光景らしく、毎日僕の背中には嫉妬と殺意の入り混じった視線が容赦なく突き刺さってきていた。
けれど、当の凛はそんな周囲の反応など全く意に介していない。
彼女を僕の目から強烈に惹きつけてやまないのは、右手の人差し指で堂々と、そして誇らしげに輝いている『真珠のリング』だった。
水族館でのデートの際、僕がプレゼントしたあの指輪。
最初は、学校にアクセサリーをつけてくるなんて、いくらなんでも目立つし校則違反ギリギリのはずだ。
しかし、凛は授業中も休み時間も、嬉しそうにその指輪を身につけたまま過ごしている。
凛がノートに文字を書き込むたび、髪を耳にかけるたび、その真珠の上品な光沢とストーンの輝きがキラキラと僕の視界に入り込んでくる。
その度に見せつけられるのだ。
水族館のベンチで僕が彼女の指にこのリングをはめた瞬間の熱。
それが、鮮明にフラッシュバックして僕の脳内を支配し、僕は授業中だというのに顔を熱くしてドギマギしてしまい、全く勉強に集中できない状態が続いている。
非常に落ち着かない……
僕が自分の席からそっと凛の右手に視線を送っていると、彼女は文庫本から顔を上げ、黒縁眼鏡の奥の瞳で僕を真っ直ぐに見つめ返してくる。
その瞳の奥には、僕が指輪を見て動揺しているのを完全に見透かしているような、嗜虐的なまでの余裕が浮かんでいた。
自分が身につけた贈り物を見て、顔を真っ赤にしている僕の姿が、たまらなく愛おしくて、凛の心の中にある強烈な独占欲と優越感を満たしてくれているのだと、その潤んだ瞳が饒舌に物語っている。
そして、誰にも気づかれないように、ほんの僅かに口角を上げて極上の微笑みを見せる。
その直後、僕のスマートフォンの画面が短く振動する。
『凛:今、私の指輪のこと見てたでしょ? ふふっ、顔、真っ赤になってるわよ』
『凛:授業中なのに、私とデートした時のこと思い出して、ドキドキしてるんでしょ? ……あなたが私からの贈り物を見て動揺している姿、すごく可愛くて、大好き』
『凛:私もね、奏多にこれをもらった時のことばっかり考えてるの』
授業中だというのに、こんなにも甘くて心臓に悪いメッセージが送られてくる。
隙あらば僕をドロドロに溶かそうと、あの手この手で甘い視線とメッセージを投げかけてくる凛の猛攻。
……しかし、僕だっていつまでもやられっぱなしでいるわけにはいかない。
僕は教師が黒板の方を向いた隙を見計らい、机の下で素早くフリック入力をして、カウンターとなる返信を投下した。
『奏多:そういう凛こそ、さっきから文庫本のページ、全然進んでないじゃないか』
数秒後、窓際の席に座る凛の肩がビクッと大きく跳ねたのが見えた。
僕はさらに、もう一通メッセージを送りつける。
『奏多:指輪、凛の綺麗な指にすごく似合ってて、つい見とれちゃったんだ。僕も、凛のことが大好きだよ』
メッセージを送った直後。
「んあっ……‼」
凛は顔を耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染め上げ、声にならない悲鳴を上げて両手で顔を覆い、そのまま机に突っ伏してしまった。
少しの間の後、再び僕のスマートフォンが震える。
『フユ:奏多のバカっ……授業中にそんなこと言われたら、心臓が爆発しちゃうじゃない……っ』
『タラ:先に仕掛けてきたのは凛だろ? 僕はただ、素直に思ったことを言っただけだよ』
『フユ:……もう、奏多のそういうズルいところ、本当に大好き。……ねえ、授業が終わったら、一番に私のところに来てね。……撫でてほしいな』
『タラ:わかったよ。でも、教室ではほどほどにね。目立つからさ』
『フユ:いいじゃない。もうみんなも周知の事実でしょ? ……それに、早く奏多の匂いを嗅がないと、私、干からびちゃいそう……』
『タラ:僕だって、ずっと凛に触れたいって思ってるよ』
そのメッセージを送信した瞬間、窓際の席の凛は完全に限界を突破したらしい。
彼女は真っ赤な顔を両手で覆ったまま、力なく机に突っ伏して、身悶えするようにフルフルと肩を震わせ始めた。
そのあまりにも可愛すぎる反応に、僕の胸の奥がたまらなく甘く締め付けられ、自然と笑みがこぼれてしまった。
結局のところ、僕たちはお互いに仕掛け合っては、二人して真っ赤になりながら甘い自爆を繰り返しているのだ。
しかし、僕たちのそんな甘ったるい二人だけの世界は、思わぬ第三者からの横槍によって唐突に切り裂かれた。
ブブッ、と短くスマートフォンが振動する。
個人間のメッセージではなく、僕と凛、そして結城さんの三人が入っているグループチャットからの通知だった。
なぜ……こっちの方から……?
『ダチA:……お二人とも。授業中にグループチャットの通知を鳴らし続けるのは、やめていただけますか?』
『タラ:あ……』
『ダチA:おそらく個人間でやり取りしているつもりなのでしょうが、途中から誤爆してグループの方に通知が飛んできていますわ。……おかげで、わたくしのスマートフォンの通知が先ほどから鳴り止まなくて、非常に迷惑です』
「っ……⁉」
僕は慌てて画面を確認した。
……やってしまった。
凛が伏せたあのタイミングか……返信を見て判断していた。
『ダチA:それに、凛の奇行のせいで、周囲の男子たちが余計に殺気立っています。その甘ったるいパッションは、放課後までに溜めておいてくださいな』
『タラ:す、すみません……!』
『フユ:ご、ごめんなさい……』
僕と凛が同時に平謝りのメッセージを送る。
恐る恐る斜め前の席に視線をやると、結城さんは振り返ることはなかったが、肩越しにこちらをジト目で睨みつけるような気配を放ち、これ見よがしに呆れ返ったような深いため息を吐き出していた。
クラスで一番頼れる彼女に、あんな見られたくない恥ずかしいやり取りをすべて見られていたと思うと、僕は顔から火が出そうになり、今すぐ机の下に潜り込みたい衝動に駆られた。
凛もまた、先ほどまでとは違う意味で顔を真っ赤にして、完全に机に突っ伏してフリーズしてしまっていた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




