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第90話 目と目を合わせて君と

 ――ガタン、プシュー。


 不意に、微かに聞こえてきた車内アナウンスと、電車の揺れがゆっくりと止まる感覚に、僕はハッと意識を引き戻された。


 冷房の効いた車内で、僕はビクッと体を跳ねさせて目を開けた。


「っ……!」


 慌てて窓の外を見ると、そこには全く見覚えのない駅のホームが広がっていた。


 暗い夜の闇の中に、オレンジ色の街灯がポツンと灯っているだけの、静かで小さな駅。


 ()()()()()()……‼


 僕は血の気が引くのを感じながら、スマートフォンの時計と路線図アプリを確認した。


「う、嘘だろ……!」


 時刻は、僕たちが降りるはずだった目的の駅への到着予定時刻を、ゆうに二十分は過ぎている。


 マズい‼


りん! 起きて、りん‼ 降りないと!」


 僕は慌てて、僕の肩で気持ちよく眠っているりんの肩を揺すった。


「んん……かなたぁ……? もう、着いたの……?」


 りんは目をこすりながら、とろんとした声で甘えながら尋ねてくる。


「着いたどころか、通り過ぎた! 完全に数駅寝過ごしたんだ‼ ほら、早く!」


「えっ……⁉」


 僕の焦った声にりんもようやく事態を把握したのか、目を丸くして跳ね起きた。


 僕は寝ぼけているりんの手を強く引き、閉まりかけていた電車のドアからギリギリのところでホームへと飛び出した。


 プシュー、ガチャン。


 無情にもドアが閉まり、僕たちを降ろした電車は、そのまま暗闇の奥へと走り去っていった。


 取り残された夜のホームは、人がまばらで異様なほどの静けさに包まれていた。


 秋の冷たい夜風が吹き抜け、火照っていた頭を急速に冷ましていく。


「……やっちまった。本当にごめん、りん。僕がしっかり起きてなきゃいけなかったのに……」


 僕は頭を抱え、深く反省した。


 初めての正式なデートの帰りに、エスコートする側の男が寝過ごして見知らぬ駅まで連れてきてしまうなんて、失態にもほどがある。


「えっと……戻りの電車は……」


 僕は慌ててホームの時刻表を確認した。


 幸いにも終電ではなく、あと十五分ほど待てば、上りの電車がやってくるようだった。


「……十五分待ちか。本当にごめん。帰るのが遅くなっちゃったな」


 僕が申し訳なさそうに振り返ると、そこには目を丸くして時刻表を見つめるりんの姿があった。


 怒っているだろうか、呆れられただろうか。


「ふふっ……あははっ!」


 不意に、りんが口元に手を当てて、くすくすと笑い始めたのだ。


「り、りん?」


「ごめんなさい、だって……奏多かなた、すごく慌ててるんだもの。あんなに焦ったあなたの顔、初めて見たわ」


 りんは僕の腕に自分の腕を絡ませ、さらにぴったりと体を寄せてきた。


 その顔に、怒りや呆れの色は微塵もなかった。


「笑い事じゃないだろ……疲れさせてるのに、余計に時間かけさせちゃって」


「私は、()()()()()()()()()()


 りんは僕の顔を見上げ、夜のホームの薄明かりの下で、これ以上ないほど甘く、とろけるような笑顔を見せた。


「だって……こうやって奏多かなたと一緒にいられる時間が、神様の悪戯で十五分も長くなったんだもの。私、むしろ嬉しいわ」


 その言葉の破壊力に、僕は呼吸を忘れた。


「……君ってやつは、本当にポジティブというか、僕に甘すぎるというか」


奏多かなた限定よ。……でも、夜のホームは少し冷えるわね」


 りんが小さく身震いをしたのを見て、僕はホームに設置されている自動販売機へと向かった。


 温かいココアのペットボトルを一つ買い、彼女の手に渡す。


「はい、これで少しは温まるだろ」


「ありがとう。……でも、これ一つしか買ってないの?」


「僕の分はいいよ。そんなに寒くないし」


 僕たちはホームの古いベンチに並んで腰を下ろした。


 すると、りんはココアのキャップを開け、一口飲んでから、悪戯っぽく微笑んで僕の口元へと突き出してきた。


「はい、奏多かなたも飲んで。一緒に温まりましょ?」


「えっ⁉ でもそれ、間接キスに……」


「水族館でもお茶を分け合ったじゃない。今更でしょ?」


「そりゃそうだけど……」


 りんは強引にペットボトルを僕の唇に押し当ててきた。


 僕は顔を赤くしながらも、観念して甘く温かいココアを一口飲んだ。


 冷えた体に、ココアの甘さがじんわりと染み渡っていく。


「……美味しい」


「でしょ? なんだか、見知らぬ駅のホームで二人きりなんて……駆け落ちでもしてるみたいね」


 りんはペットボトルをベンチに置くと、僕の腕にしがみつき、僕の肩にこてんと頭を乗せてきた。


 僕ら以外には誰もいない夜のホーム。


 遠くで虫の音が鳴り、冷たい秋の夜風が吹き抜ける中、りんは小さく身を縮こまらせた。


「……やっぱり、ちょっと寒いかも」


「大丈夫か? カーディガン羽織ってるけど、海沿いだし夜風は冷えるからな」


 僕が心配して声をかけると、りんは上目遣いで僕を覗き込み、僕が着ているジャージの上着の右ポケットに視線を落とした。


「ねえ、奏多かなた。手、温めて?」


「え?」


 僕が聞き返すより早く、りんは自分の冷たい右手を、僕のジャージのポケットの中にスッと滑り込ませてきた。


 突然のことに僕がビクッと肩を揺らすと、彼女はポケットの中で僕の右手の指先を探り当て、そのまま自分の指を絡ませてきた。


「ここなら、風も当たらないし、奏多かなたの体温でぽかぽかしてて気持ちいいわ」


 りんは悪戯っぽく微笑み、さらに体を僕に密着させてきた。


 彼女の指の冷たさが僕の体温で少しずつ温められていくのと同時に、僕の心臓の鼓動は再び限界を突破して高鳴り始めた。


「……本当に、君はスリルが好きだな」


奏多かなたが照れる顔を見るのが好きなのよ」


 りんは僕の肩に頭を預けたまま、空いた左手をゆっくりと伸ばしてきた。


 そして、その白く細い指先で、僕の右頬を、そっと優しく撫でた。


「……りん?」


「あの時のキス……びっくりしたけど、すごく嬉しかったわ」


 りんの声は、夜の静寂に溶けるように甘く、そして微かに震えていた。


 彼女の指先が頬をなぞるたび、夕日の下でのあの柔らかい感触と熱が鮮明にフラッシュバックする。


「……次は、絶対に私から奪ってやるんだから。覚悟しておいてね」


 僕の頬を撫でていた手が離れ、りんは悪魔のように、けれどこれ以上ないほど愛おしそうに微笑んだ。


『まもなく、一番線に上り列車がまいります。危険ですから、黄色い線の内側までお下がりください』


 不意に、静まり返ったホームに到着を知らせるアナウンスが響いた。


 十五分という時間は、あっという間に過ぎ去ってしまったのだ。


「……もう、電車が来ちゃうのね」


 りんは名残惜しそうに呟き、夜空の星を見上げた。


「なんだか……このまま時間が止まればいいのにって、少しだけ思っちゃった」


「……奇遇だね。僕もだよ」


 二つのヘッドライトを光らせて、上りの電車がホームに滑り込んでくる。


 僕たちはポケットの中で繋いでいた手を名残惜しく解き、立ち上がった。


 プシューという音と共に開いたドアから、再び車内へと乗り込む。


 今度は二人とも起きたまま、けれどやっぱり肩を寄せ合い、他愛のない話をしながら目的の駅へと戻っていった。


 最寄り駅に到着し、すっかり夜の闇に包まれた街を二人で歩く。


 駅からの帰り道でも、りんは当然のように僕の左手に自分の右手を絡ませて歩いていた。


「今日は本当にありがとう、奏多かなた。……すっごく楽しかった」


 僕の家の前に到着すると、りんは僕に向き直り、今日一番の笑顔を見せてくれた。


 アイスブルーのワンピースと白いカーディガン姿の彼女は、夜の暗闇の中でも輝くように美しかった。


「……また、一緒に行こう」


「ええ。約束よ」


 名残惜しそうに繋いでいた手をゆっくりと離す。


「じゃあ……また学校で」


「うん。おやすみなさい、奏多かなた


 僕は、りんの姿が見えなくなるまで見送り、僕は深く息を吐き出して、自分の家の扉のノブに手をかけた。

カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。

先が気になった方はそちらもご覧ください。

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