第89話 人生って一度きりだもんね
「……そろそろ、駅に向かおうか」
「ん……」
僕が優しく声をかけると、凛は僕の胸元をきゅっと掴んだまま、小さく返事をした。
顔を上げた彼女の瞳は潤んでいて、僕の右頬にキスをした恥ずかしさと、僕からキスを返された嬉しさで、完全にとろんとしている。
「歩ける?」
「……歩けるわ。でも、手は繋いでて」
凛はスッと僕の左手に自分の右手を伸ばし、しっかりと指を絡ませる。
彼女の右手の人差し指には、今日一緒に選んだ真珠のストーン付きリングが、街灯の光を受けて控えめに、けれど確かに輝いている。
僕たちは手を繋いだまま、水族館の敷地を後にして駅へと向かって歩き出した。
駅までの道中、凛はずっと僕の腕にぴったりと身を寄せ、無言のまま僕の肩に何度も頬を擦り付けてきた。
言葉はなくとも、繋いだ手から伝わってくる彼女の熱い体温と、少し速い脈動が、心の中にある限界突破した愛情を饒舌に物語っていた。
やがて駅に到着し、改札を抜けてホームへと降りる。
秋の夜のひんやりとした空気が、一日中歩き回って火照った体を優しく冷ましてくれる。
「……寒くないか?」
僕が尋ねると、凛は首を横に振った。
「ううん。奏多が手を握ってくれているから、すごく温かいわ」
「そっか」
「でも……」
凛は上目遣いで僕を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。
「電車の中は冷房が効いているかもしれないから……もっとくっついていないと、風邪を引いちゃうかもしれないわね」
あからさまな口実だった。
間もなくして、二つのヘッドライトを光らせて電車がホームに滑り込んできた。
プシュー、という音と共にドアが開き、僕たちは車内へと足を踏み入れた。
休日の夜の電車内は思いのほか空いていて、長いロングシートの端の席をあっさりと確保することができた。
ガタン、ゴトンと規則正しいレールを刻む音が響き出し、電車がゆっくりと走り始める。
「……んっ」
座席に腰を下ろした瞬間、凛は宣言通り、僕の右腕に自分の両腕を絡ませ、ぴったりと体を密着させてきた。
アイスブルーのワンピースと薄手のカーディガン越しに、彼女の柔らかな重みが直接伝わってくる。
「ちょっ、凛……いくら空いてるからって、少しは離れないと……」
「嫌よ」
凛は僕の肩にこてんと頭を乗せてきた。
「あのね?」
「うん」
「……本当に、今日は夢みたいだった」
僕の腕にしがみついたまま、凛がポツリと呟いた。
「奏多と待ち合わせをして、手を繋いで水族館を歩いて。……イルカのショーを見ながら、私のお弁当を美味しいって食べてくれて」
「ああ。本当に最高の一日だったよ」
「私ね、クジラやイルカのぬいぐるみより、あの時間が一番嬉しかったの」
凛はそう言うと、僕の左手と絡ませている自分の右手をそっと持ち上げた。
彼女の人差し指にはめられた真珠の指輪が、車内の蛍光灯の光を反射してきらきらと輝く。
「奏多が私のために買ってくれた、真珠の指輪。……私の宝物が、また増えたのよ」
「喜んでもらえてよかったよ。……でも、僕の宝物は、今僕の隣にいるんだけどね」
僕が照れ隠しにわざとキザなセリフを口にすると、凛は一瞬だけ目を丸くし、やがて顔を茹でダコのように真っ赤に染めた。
「っ……! もうっ……! 奏多のバカっ‼ そういうこと、いきなり言わないでよっ!」
「いつも不意打ちしてくるのは凛の方だろ?」
「だ、だってっ! 心臓が、本当に爆発しちゃうっ!」
僕は時限爆弾かよ……
凛は両手で顔を覆い隠し、僕の肩に顔をぐりぐりと押し付けて身悶えし始めた。
嫉妬と羨望の視線が周囲から突き刺さってくるが、今の僕にはそんなものはどうでもよかった。
「……ねえ、奏多」
「ん?」
しばらく僕の肩に顔を押し付けていた凛が、不意に上目遣いで僕を覗き込んできた。
「……あれ、反則よ」
「どれ?」
「バカっ……あのキスよ」
「だから、今日のお礼だって言っただろ」
「お礼なら、ちゃんと唇にしてくれなきゃ」
凛は悪戯っぽく微笑み、僕の耳元にスッと顔を近づけた。
甘く湿った吐息が、僕の鼓膜をくすぐる。
「今からでも、いいわよ?」
「バカ言え、電車の中だぞ」
僕が慌てて身を引こうとすると、凛は僕の腕をきゅっと強く掴み、絶対に逃がさないという強い意志を示した。
「冗談よ。……本当のキスは、お楽しみに取っておくわ」
「……ああ。約束するよ」
「ふふっ。楽しみにしてる」
凛は満足そうに微笑むと、再び僕の肩にこてんと頭を預けた。
電車は駅に停まるたびに、数人の乗客を降ろし、また乗せていく。
ガタン、ゴトンという一定のリズムと、冷房の微かな駆動音。
心地よい揺れが続く中、一日中水族館を歩き回り、極限まで感情を昂らせていた疲労感が、少しずつ僕たちの体を侵食し始めていた。
「……奏多」
「ん?」
「……なんだか、すごく眠くなってきた」
凛の声が、先ほどよりも少しだけとろんとした、微睡みを含んだものに変わっていた。
僕の肩に乗せられた彼女の頭の重みが、少しだけ増したような気がする。
「寝てていいよ。着くまでまだ少し時間があるから」
「……うん。でも、奏多の匂い、もっと嗅いでいたい」
凛は目を閉じたまま、僕の首筋のあたりに顔をすりすりと擦り付けてきた。
彼女の柔らかな髪が僕の頬をくすぐり、温かい吐息が直接肌に触れる。
「……っ、凛、くすぐったいってば」
「んふふ……奏多、あったかい……」
凛は僕の腕を抱きしめる力を少しだけ強め、完全に僕の体に自分の体重を預けてきた。
少しだけ開いた彼女の桜色の唇から、微かに規則的な呼吸音が漏れ始め、彼女の体から完全に力が抜け、僕の肩で静かな寝息を立て始めた。
「……本当に、寝ちゃったか」
僕は誰にも聞こえないように小さく呟き、肩で眠る凛の寝顔をそっと見下ろした。
長い睫毛が白い頬に影を落とし、無防備で穏やかな表情を浮かべている。
僕の左手には、まだ凛の右手がしっかりと絡められたまま。
彼女の指先はひんやりとしているのに、手のひらから伝わってくる熱は驚くほどに温かい。
僕は彼女を起こさないように、繋いだ手に少しだけ力を込めて、その冷たい手をそっと握り返した。
微かに彼女の指が動き、眠りの中でも僕の存在を確かめるように、僕の指を握り返してくるような気がした。
「……お疲れ様、凛。今日は本当に、楽しかったよ」
僕は凛の髪にそっと自分の頬を寄せ、その甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
電車の心地よい揺れと、腕の中から伝わってくる彼女の柔らかな体温。
そして、一定のリズムで聞こえてくる彼女の規則的な寝息。
それらが極上の子守唄のように僕の脳を揺さぶり、抗いがたい眠気が僕のまぶたを重くしていく。
本来なら、彼女が寝過ごさないように僕がしっかりと起きていなければならないはずだ。
しかし、彼女の圧倒的な安心感と甘い匂いに包まれていると、僕の理性も少しずつ溶けていくのがわかった。
「……あと少しだけ」
僕は自分に言い訳をするように心の中で呟き、凛の頭に自分の頭をそっと預けた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




