第88話 愛が溢れていく
水族館の出口ゲートを抜けると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
秋の空は高く、西の水平線に沈みゆく太陽が、海と港の景色を燃えるようなオレンジ色に照らし出している。
「……すごく、綺麗な夕日」
海沿いの広々としたウッドデッキに出ると、海風が心地よく頬を撫でた。
少し離れた場所には、巨大な観覧車が夕日をバックにゆっくりと回っているのが見える。
「ああ。本当に綺麗だな」
僕たちはウッドデッキの海側にあるベンチに、並んで腰を下ろした。
海面が夕日を反射して、きらきらと光の道を作っている。
水族館の喧騒から離れ、ここには波の音と、海鳥の鳴き声だけが静かに響いていた。
「……ねえ、奏多」
ベンチに座ったまま、凛が僕の肩にこてんと頭を乗せてきた。
今日一日中歩き回って疲れているはずなのに、彼女から伝わってくる体温は、朝待ち合わせた時よりもずっと熱を帯びているように感じる。
「ん? どした?」
「……今日のこと、本当に嬉しかった」
凛は夕日を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「私、ずっと一人だったから。一緒に遊びに行ったり、お弁当を作ったり、こういう当たり前の青春みたいなこと、私には一生縁がないものだと思ってた」
凛の声は微かに震え、どこか遠くの記憶を辿っているようだった。
「でも、今日は、二人きりで、こんなに素敵な景色を見ている」
凛は僕の肩からゆっくりと頭を離し、真正面から僕の瞳を見つめてきた。
オレンジ色の夕日を受けた彼女の瞳は、潤んでいて、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「私、今日一日で、もっとあなたのことが好きになったわ」
「んぐっ⁉」
限界まで甘く、そして重たい愛情の告白。
僕の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
「……それは、僕もだよ」
僕は凛の視線から逃げることなく、しっかりと見つめ返した。
「今日一日、君が僕に見せてくれた色んな表情、無邪気に笑うところも、怒った顔も、照れて顔を真っ赤にしたところも。……全部が愛おしくて、たまらなかった」
「奏多……」
「僕も君のことを、世界で一番大切にしたい。……君がいない世界なんて、もう考えられないから」
僕が真っ直ぐに想いを伝えると、凛の目からポロリと一粒の涙が零れ落ちた。
「奏多のバカっ。そういうこと、こんな綺麗な景色の中で言うなんて……反則よ」
凛は涙を拭うこともせず、僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
「痛い、痛い」
「痛くしてるのよ」
僕は凛の華奢な背中に腕を回し、そっと優しく抱きしめた。
「泣かないで。せっかくのデートが台無しになっちゃうだろ」
「……風にゴミが入っただけよ。あなたが私をこんな風にしたんだから、ちゃんと責任とってよね」
凛は僕の胸の中でくすくすと笑い、さらに強く僕にしがみついてくる。
夕日の沈む海辺のベンチで、僕たちはただ互いの体温と鼓動を確かめ合うように、深く密着していた。
波の音が、二人の重なり合う心臓の音を優しく包み込んでいる。
「……ねえ、奏多」
不意に、凛が僕の胸元から少しだけ顔を上げた。
「なに?」
「……今なら、誰も見ていないわよ」
その言葉に、僕はハッとして周囲を見回した。
夕暮れのウッドデッキには、遠くを歩く人の姿が小さく見えるだけで、僕たちの近くには誰もいない。
オレンジ色の光と、海から吹く風が、僕たち二人だけの世界を作り出している。
「そうだけど……」
「ね? キスしよ?」
凛の潤んだ瞳が、僕の唇を真っ直ぐに捉えていた。
長く美しい睫毛が微かに震え、彼女の桜色の唇が少しだけ開かれる。
僕はごくりと息を呑み、彼女のすべてを受け入れるように、ゆっくりと顔を近づけた。
凛もまた、目をそっと閉じ、僕の首に両腕を回してくる。
吐息が完全に混ざり合い、唇と唇の距離がゼロに……ならなかった。
ブブブブブッ!!
僕のズボンのポケットの中で、無情にもスマートフォンの強烈なバイブレーションが鳴り響く。
「っ⁉ 悪い‼」
「ひゃっ⁉」
僕は慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
そこには、『妹』からの着信が表示されていた。
あいつ……ここまで邪魔をするのか。
「も、もしもし……!」
『あ、お兄ちゃん⁉ お土産のクッキー、ちゃんと買った⁉ イルカのやつがいいって言ったよね⁉』
電話の向こうから、空気を読まない妹のやかましい声が響き渡る。
「か、買ったよ! 今から帰るところだから、家で待ってろ!」
『やったぁ! じゃあ早く帰ってきてねー! 凛お義姉ちゃんにもよろしくー』
ツー、ツー……嵐のように用件だけを伝えて、電話が切れた。
嵐のような奴だった。
僕はスマートフォンを握りしめたまま、夕日の中で完全にフリーズしてしまった。
恐る恐る隣を見ると、凛は顔を真っ赤にして、僕の肩をポカポカと力任せに叩いてきた。
「もうっ……‼ 奏多のバカっ! 妹ちゃんのバカっ!」
「い、痛い! 僕のせいじゃないだろ!」
「私の覚悟を返して……っ!」
凛は恥ずかしさと悔しさで涙目になりながら、再び僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
僕は苦笑しながら彼女の背中を優しく撫でた。
しかし、これはチャンスと言える。
いつも彼女から仕掛けられてばかりで、翻弄されてばかりの僕だが、今日という特別な日くらいは。
「……凛」
僕は凛の肩をそっと抱き、強引に顔を上げさせた。
「え……?」
涙目で僕を見つめる凛の顔が、オレンジ色の夕日に照らされている。
「ちょっとそのまま」
ミスるな……大丈夫。
僕はごくりと息を呑み、凛の白い頬にそっと手を添えると、そのまま少しだけ顔を傾け。
ちゅっ、と。
凛の柔らかく火照った右頬に、自分の唇をそっと押し当てた。
「っ……⁉」
突然の僕からの不意打ちのキスに、凛は目を丸くして完全にフリーズしてしまった。
数秒の静寂の後、彼女の顔がみるみるうちに限界突破したように真っ赤に染まっていく。
「か、奏多……今……」
「……これは、今日のデートのお礼。今日はありがとう」
僕が顔から火が出そうになるのを必死に堪えながら言うと、凛は両手で自分のキスされた頬を押さえ、身悶えするようにフルフルと震え始めた。
「なっ……! もうっ……! 奏多のバカっ! そういう不意打ちは反則よ……っ!」
「いつも反則してるのは君だろ」
「ずるい……ずるいわ、奏多っ。心臓が、本当に爆発しちゃう……っ」
凛は真っ赤になった顔を再び僕の胸に埋め、今度は嬉しさと恥ずかしさで完全にドロドロに溶けきっていた。
僕の袖を強く握りしめる彼女の手から、先ほどはめたばかりの真珠のストーン付きリングが、上品で神秘的な光沢を放っている。
「……次こそは絶対に、誰にも邪魔されないところで、私から全部奪ってやるんだから」
オレンジ色に染まる海を背景に、僕たちの初めてのデートは終わりを告げようとしていた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




