第86話 君がそばにいるから
僕たちは、再び水族館の屋内展示エリアへと戻ってきた。
午後になり、館内は午前中よりもさらに多くの人で賑わっている。
しかし、僕たちの手は、人混みの中でも決して離れることはなかった。
「……んっ」
向かいから歩いてきた子供の集団が、ふざけ合いながら僕たちの横を通り過ぎようとした。
そのうちの一人がバランスを崩し、凛の肩にぶつかりそうになる。
「危ない」
僕は咄嗟に繋いでいた手を強く引き、凛の体を自分の胸の中へと引き寄せた。
ドンッ、と僕の背中に子供がぶつかったが、凛には指一本触れさせることなく庇うことができた。
子供たちは「ごめんなさーい!」と言いながら走り去っていく。
「大丈夫? 凛。怪我はない?」
僕が自分の腕の中にすっぽりと収まっている凛に尋ねると、彼女は驚いたように目を丸くし、それから顔を真っ赤に染めて僕を見上げた。
「あ、ありがとう、奏多……びっくりしたけど、大丈夫よ」
凛は僕の腕の中で、ホッとしたように小さく息を吐いた。
そして、僕の袖をきゅっと掴み、さらに体をぴったりと密着させてきた。
「……奏多が守ってくれたから。すごく、安心したわ」
上目遣いで甘く囁かれ、僕の心拍数は一気に跳ね上がった。
「反則だなぁ」
「どういう意味?」
「そのままの意味……」
すれ違う人とぶつかりそうになるたび、凛は僕の腕にきゅっとしがみつき、体を寄せてくる。
その度に伝わってくる柔らかな感触と、アイスブルーのワンピース越しに感じる彼女の体温が、僕の理性を容赦なく削り取っていく。
「さて、次はどこへ行こうか。……ペンギンコーナーとかどう?」
僕が提案すると、凛は目を輝かせてコクリと頷いた。
「ええ、行きたいわ。実は、ペンギンが泳ぐところ、見たことないの」
僕たちは案内板に従って、南極の環境を再現したというペンギン水槽へと向かった。
ガラス越しに広がる氷と岩のセットの上で、たくさんのペンギンたちがよちよちと歩いている。
しかし、彼らが水の中に飛び込んだ瞬間、その動きは劇的に変わった。
「わぁ……! 飛んでるみたい!」
水槽のガラスのすぐ目の前を、ペンギンたちが弾丸のようなスピードで泳ぎ去っていく。
その水中を飛翔するような滑らかな動きに、凛は子供のようにはしゃいでいた。
「陸の上ではあんなに不器用そうなのに、水の中に入ると全然違う生き物みたいになるんだな」
「ふふっ、なんだか奏多みたいね」
「え? 僕?」
「そうよ。普段は不器用で、ちょっと頼りないところもあるけれど、音楽の世界に入ると、誰よりも力強くて、どこまでも遠くへ羽ばたいていくんだから」
凛は悪戯っぽく微笑みながら、僕の肩にこてんと頭を乗せてきた。
周囲には大勢の観客がいるというのに、彼女の僕に対する甘え方は、時間が経つにつれてどんどんエスカレートしている気がする。
「……そういう言い方は、ズルいと思う」
「ズルくて結構よ。今日は、私をいっぱいドキドキさせてくれるって約束したんだから。……私だって、あなたをドキドキさせたいもの」
上目遣いで覗き込んでくる潤んだ瞳に、僕は完敗を宣言するしかなかった。
ペンギン水槽を抜け、ウミガメの回遊水槽や、色鮮やかなサンゴ礁の展示などをゆっくりと見て回り、気づけば時計の針は夕方の四時を回ろうとしていた。
館内の照明が少しだけ落ち、閉館時間が近づいていることを知らせている。
「……そろそろ、お土産コーナーに行こっか」
「そうね。今日のこと、形に残る思い出として持って帰りたいわ」
僕たちは手を繋いだまま、水族館の出口付近にある広大なミュージアムショップへと足を踏み入れた。
ショップ内は、帰り際に買い物をしようとする客でごった返していた。
入り口付近から、カランカランッ! という景気の良い鐘の音と、店員さんの元気な声が響いてきた。
「おめでとうございまーす! 二等大当たりです!」
見ると、そこには『ハズレなし! 海の仲間ぬいぐるみくじ 一回一〇〇〇円』と書かれた特設コーナーがあった。
一等が超特大のぬいぐるみ、二等が特大、三等が中くらい、四等が手のひらサイズの小さなぬいぐるみとなっている。
凛は、そのコーナーの横に飾られている、つぶらな瞳をした一等の超特大シャチのぬいぐるみをじーっと見つめていた。
「引いてみる?」
僕が声をかけると、凛はハッとして首を横に振った。
「ううん、いいわ。一回千円もするし……それに私、こういうの運がないから、どうせ四等しか当たらないもの」
「お祭りみたいなものだし、今日の記念にさ。僕も引くから、一緒にどう?」
僕が千円札を二枚財布から取り出して見せると、凛は少しだけ迷った後、嬉しそうにコクリと頷いた。
「……じゃあ、一回だけ」
「よし来た」
僕たちはくじ引きの列に並び、順番が来ると、まずは凛からくじの箱に手を入れた。
「お願い……シャチさん……!」
凛はギュッと目を閉じて祈るようにつぶやきながら、一枚のくじを引き当てた。
店員さんにくじを渡し、ゆっくりと紙が開かれる。
「……四等でーす! こちらの小さいサイズからお好きなものをお選びください!」
「あぅ……やっぱり」
店員さんの明るい声に、凛は少しだけ唇を尖らせて肩を落とした。
それでも、ワゴンに並べられた四等の小さなぬいぐるみたちを見ると、すぐに瞳を輝かせた。
「でも、小さいのもすごく可愛いわ。……私、このシャチにする」
凛が選んだのは、手のひらにちょこんと乗るサイズの、丸っこいフォルムをしたシャチのぬいぐるみだった。
「じゃあ、次は僕だな」
僕も箱の中に手を入れ、適当に一枚を引いて店員さんに渡した。
「おっ! 三等でーす! こちらの中サイズからお選びください!」
「三等か。悪くないな」
僕は中サイズのぬいぐるみの中から、真っ白なベルーガのぬいぐるみを選んだ。
今日、水槽越しに僕たちにすり寄ってきてくれた、あの人懐っこいイルカだ。
凛は自分の手のひらの小さなシャチと、僕が抱えている中くらいのベルーガを交互に見比べた。
「奏多、三等ですごいわ。……ベルーガ、可愛い」
「凛、こっちのベルーガと交換する?」
僕が尋ねると、凛は首を横に振り、自分の小さなシャチを両手で愛おしそうに包み込んだ。
「ううん、いいの。この小さなシャチ、なんだか奏多みたいで可愛くて気に入ったから。……それに、これなら鞄につけて、いつでも一緒にいられるもの」
「僕みたいって……」
「ふふっ。私のシャチと、奏多のベルーガ。なんだかセットみたいで良いわね」
凛は嬉しそうに微笑み、小さなシャチのぬいぐるみを僕のベルーガにちょんとキスするようにぶつけてきた。
その可愛すぎる仕草に、僕は顔を熱くしながらも、くじを引いて本当によかったと心から思った。
作者は4等以外当たったことありません。
当たったことある人は教えてほしいくらいです。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




