第82話 瞳に映る今を束ねながら
休日の水族館は、想像していた通り、多くのカップルや家族連れで賑わっていた。
予約していた電子チケットの画面をスマートフォンのアプリで提示し、僕たちはスムーズに入場ゲートをくぐり抜けた。
ゲートの先にある分厚い扉を抜けた瞬間、外の明るい陽射しと喧騒が完全に遮断された。
「わぁ……」
凛が、感嘆の声を漏らす。
目の前に広がっていたのは、深い海の中を思わせる、薄暗く幻想的な空間だった。
通路の壁や天井は黒く統一されており、メインの照明は極限まで落とされている。
その代わり、左右に並ぶ巨大な水槽の中から放たれる深い青色の光が、館内全体を神秘的に照らし出していた。
水槽の中では、色鮮やかな熱帯魚の群れや、銀色に輝く小魚たちが、光の乱反射の中で優雅に泳ぎ回っている。
水族館特有の、少しひんやりとした冷たい空気が肌を撫でた。
「……本当に、別世界みたいね」
「ああ。すごく綺麗だ」
青い光に照らされた凛の横顔は、言葉を失うほどに美しかった。
僕としっかりと指を絡ませて繋いでいる手は、ひんやりとした外気とは裏腹に、火傷しそうなほどの熱を帯びている。
「ねえ、奏多。まずはあっちの大きな水槽に行きましょ」
凛は繋いだ手をグイッと引き、僕を最初の展示エリアへと誘導した。
そこは、この水族館の目玉とも言える、巨大なシャチの展示プールだった。
天井まで届きそうなほど巨大なアクリルガラスの向こう側を、白と黒の流線型の巨体が、恐ろしいほどのスピードと優雅さで泳ぎ回っている。
「奏多、ほら見て! シャチよ、すごく大きいわ!」
凛は水槽のガラスのすぐ目の前まで歩み寄り、子供のように目を輝かせてはしゃいだ。
「すごい迫力だな。日本だとシャチが見られる場所は少ないって聞いたことがあるよ」
「ええ。私、図鑑や動画でしか見たことなかったから、本物を見るのは初めてなの。……すっごく可愛い」
凛がガラスに手を当てて見つめていると、一頭のシャチがスーッと近づいてきて、ガラス越しに凛の目の前を悠然と通り過ぎていった。
その巨体に圧倒されつつも、凛は嬉しそうに僕の方を振り返った。
僕たちはそのまま手を繋いで順路を進み、次はベルーガの展示水槽へとやってきた。
真っ白で丸みを帯びた頭部を持つベルーガが、水槽の中でゆっくりと泳いでいる。
「わぁ……真っ白。すごく神秘的ね」
凛が見つめていると、一頭のベルーガがガラス越しにすり寄ってきて、キュッと愛嬌のある鳴き声を上げるように口をパクパクと動かした。
「ふふっ、人懐っこいのね」
「凛がすごく綺麗だから、ベルーガも気になって寄ってきたんじゃないか?」
僕が冗談めかして、けれど半分は本気で言うと、凛はピタリと動きを止め、耳の先まで真っ赤に染め上げた。
「……っ。奏多ったら、急にそういうこと言うんだから……心臓に悪いわ」
「本当のことだよ」
「バカっ‼」
本当のことなのに……怒られた。
凛は恥ずかしさを誤魔化すように僕の腕にきゅっとしがみつき、僕の肩にこてんと頭を乗せてきた。
周囲には魚やイルカに夢中になっている家族連れがたくさんいるというのに、彼女は全く気にすることなく僕に密着してくる。
「……ねえ、奏多?」
「ん?」
「私、水族館に来たの、すごく久しぶり」
僕の腕にすり寄りながら、凛がポツリとこぼした。
「パパもママも仕事で忙しかったから、休日に家族でお出かけした記憶って、あんまりないの。……だから、今日がすごく楽しみだった」
「そうだったのか……」
「でもね」
凛は僕の顔を見上げ、これ以上ないほどに甘く、とろけるような笑顔を見せた。
「大人になってからの初めての水族館が、奏多と一緒で本当によかった。……今日のこと、一生忘れないわ」
「僕もだよ、凛」
僕たちは互いの手をさらに強く握りしめ、次のエリアへと足を進めた。
順路を抜けて南側の館内へと入ると、そこには一際巨大な水槽が待ち受けていた。
何万匹というマイワシの群れが、水槽の中で一つの巨大な渦を作り出している、マイワシのトルネード。
青色や緑色のライトアップが水槽の中に照らされ、マイワシの銀色の鱗が光を反射して、まるで海の中に銀河が広がっているかのような圧倒的な美しさだった。
「すごい……まるで、星空みたいね」
「うん。……ずっと見ていられそうだ」
僕たちは水槽のすぐ目の前まで歩み寄り、その圧倒的な光景を見上げた。
無数の魚たちが一つの生命体のように渦を巻き、幻想的な音楽に合わせて泳ぎ回っている。
青い光に照らされた凛の横顔は、アイスブルーのワンピースと相まって、本当に海の底から現れた女神のように美しかった。
「本当に、綺麗ね……」
「そうだね。……でも」
「ん?」
僕が言葉を濁すと、凛は不思議そうに僕の方へと顔を向けた。
薄暗い青い光の中で、凛の潤んだ瞳が僕の顔を真っ直ぐに捉える。
「……僕には、君の方が何倍も綺麗に見えるけど」
僕が視線を逸らさずに、心からの本音を言葉にすると、凛は一瞬だけ目を丸くして固まった。
そして、次の瞬間、彼女の白い頬が、青い光の下でもはっきりとわかるほどに限界まで真っ赤に染まった。
「っ……‼ だ、ダメよっ! そんなこと言われたら、私、本当に水族館の中で心臓発作で倒れちゃうわっ‼」
凛は繋いでいた僕の手を両手でギュッと包み込み、自分の胸元に押し当てて身悶えするように身をよじった。
「た、倒れられたら困るんだけど……」
「奏多のバカっ……! カッコよすぎるのよ……っ!」
凛は涙目になりながら、僕の肩にこてんと頭を乗せ、そのまま僕の腕に深くすり寄ってきた。
周囲の来場者たちは皆、トルネードの演出に夢中になっており、僕たちのことなど誰も気にしていない。
青い光に包まれたこの幻想的な空間は、まるで僕たち二人だけのために用意された密室のようだった。
「……反則よ、奏多。私ばっかりドキドキして、不公平だわ」
「不公平じゃないさ。僕だって、今にも心臓が破裂しそうなんだから」
「ふふっ……なら、もっとドキドキさせてあげる」
凛は僕の腕にしがみついたまま、ゆっくりと歩き出した。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




