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第81話 誰の声も聞こえない場所へ

 秋の気配が深まり、空が高く澄み渡った土曜日の朝。


 僕は駅前の広場にそびえ立つ、古びた時計塔の前に立っていた。


 休日の駅前は、待ち合わせをする若者や、どこかへ出かける家族連れで溢れかえっている。


 行き交う人々の賑やかな声や、遠くから聞こえる車の走行音が耳に届くが、僕の意識はそのどれにも向いていなかった。


 ただひたすらに、自分の胸の奥で早鐘を打つ心臓の音だけが、不協和音のようにうるさく鳴り響いているのを感じていた。


 時刻は、午前九時四十五分。


 りんとの待ち合わせた約束の十時までは、まだ十五分もある。


 さすがに早く着きすぎたかと思ったが、家でじっとしていても落ち着かなくて、つい早く家を出てきてしまったのだ。


 家を出る際、リビングでくつろいでいた妹から「お兄ちゃん、顔がガチガチだよ! エスコート頑張ってねー!」とニヤニヤしながら見送られたことを思い出し、僕は小さくため息を吐いた。


 無理もない。


 恋人として、結婚まで約束をした大好きな人と、二人きりで初めてのデートをするのだ。


 そんなの、緊張しない方がおかしい。


「……よし。服は、大丈夫だな」


 僕は駅のガラス窓に映る自分の姿を、もう一度だけ確認した。


 白のモックネックシャツに、秋らしい落ち着いたグレージュのカーディガン、そして黒のテーパードパンツ。


 普段のダボっとしたパーカーばかり着ている自分とは全く違う、少しだけ大人びていて清潔感のあるコーディネート。


 見慣れない自分の姿にまだ少しだけ気恥ずかしさを感じるが、この服なら、りんの隣を歩いても恥ずかしくはないはずだ。


 早く、会いたいな。


 昨日の夜までメッセージのやり取りをしていたのに、一晩離れただけで、もう彼女の体温と甘い香りが恋しくてたまらなくなっている。


 完全に、りんの重たくて甘い引力に囚われてしまっている証拠だ。


 僕はそわそわと周囲を見回しながら、スマートフォンの画面と時計塔の針を何度も交互に見つめた。


 九時五十分……五十三分。


 そして、九時五十五分になろうとした、その時だった。


「……お待たせ、奏多かなた


 不意に、人混みの喧騒を切り裂くように、甘く涼やかな声が僕の耳に届いた。


 ビクッと肩を揺らして声のした方へ振り返った瞬間。


 僕は、文字通り呼吸を忘れ、完全にその場に釘付けになってしまった。


りん? おはっ…………⁉」


「ごめんなさい、待たせちゃったかしら」


 そこに立っていたのは、僕の想像を遥かに超える、息を呑むほどに美しい少女だった。


 りんが身に纏っていたのは、淡いアイスブルーのノースリーブワンピースだった。


 首元は上品なハイネックになっているが、肩から腕にかけてのラインが綺麗に出ており、その上に薄手の白いカーディガンをふわりと羽織っている。


 足首まであるシフォン素材のスカートが、秋の微風に揺れるたびに軽やかに舞い、ほんのりとした透け感が彼女の透き通るような肌の白さを最大限に引き立てていた。


 普段の無骨な黒縁眼鏡は外されており、艶やかな黒髪は丁寧にかれ、りんの大きな潤んだ瞳が、僕の顔を真っ直ぐに捉えている。


 歩きやすいヒールの低いサンダルを履いた足元まで、どこからどう見ても完璧な、大人の女性のような清楚さと色気を兼ね備えたコーディネートだった。


 周囲を行き交う通行人たちすらも、すれ違いざまに思わず振り返ってりんの姿を二度見しているのがわかった。


「全然待ってないよ、今来たところだから」


「……そう……それで? どうかしら」


 りんは僕の数歩前で立ち止まると、もじもじとカーディガンの袖を握りしめ、上目遣いで僕を覗き込んできた。


 その透き通るような白い頬は、ほんのりピンクに染まっている。


「……それは結城ゆうきさんチョイス?」


()()()。今回は私が独自で選んだのよ……奏多かなたに見てほしくて」


 んぐっ……可愛い。


「すごく似合ってる。……りんが綺麗すぎて、完全に見とれちゃったよ」


 僕が語彙力を失い、ただ素直な感想をそのまま口にした瞬間。


 なぜか、りんの肩がビクッと大きく跳ねた。


「んあっ……⁉」


 りんは小さく可愛らしい悲鳴を上げ、両手で自分の真っ赤な顔を覆い隠してしまった。


 そして、その場で身悶えするようにフルフルと震え始める。


「り、りん? どうしたの?」


「だ、ダメよっ……‼ 私の()()と、全く同じこと言うなんてっ‼ 心臓が、本当に爆発しちゃうっ‼」


「妄想って……?」


「な、なんでもないわ! 何でもないのよ‼」


「わ、分かった。分かったから」


 りんは顔を覆っていた手を少しだけ離し、潤んだ瞳で僕を恨めしそうに、けれどこれ以上ないほど甘く熱を帯びた視線で睨みつけてきた。


「落ち着いて、りん。大丈夫。ほら吸って、吐いて」


「すーっ……はーっ」


 りんは数秒かけて深呼吸をし、なんとか平常心を保とうと努めているようだった。


「落ち着いたわ。ありがとう、そうね……」


 そして、今度は僕の全身を上から下までじっくりと眺め、ふわりと美しい笑みを浮かべた。


奏多かなたも……すごく似合ってる。少し大人っぽくて、すごくカッコいいわ」


「ありがとう。まあこれは、ほぼ結城ゆうきさんのチョイスだけど」


「それでも……私がカッコいいって思ってるんだから」


 りんはそう言うと、周囲の目など全く気にする様子もなく、僕のすぐ隣まで距離を詰めてきた。


「そう? そう言ってくれると嬉しいよ」


 フローラルなシャンプーの香りと、特有の甘い匂いが、僕の脳を溶かしていく。


「……じゃあ、行こっか。水族館」


「ええ。……でも、その前に」


 りんは僕の左手の方へとスッと自分の右手を伸ばしてくると、躊躇うことなく僕の指の間に自分の細く冷たい指先を滑り込ませた。


 そして、しっかりと隙間を埋めるように、ギュッと握りしめてきた。


「……()()()()()()()()、ね」


 上目遣いで微笑むりんの瞳には、僕に対する強烈な独占欲が浮かんでいた。


 周囲からの「なんだあの美少女、あいつの彼女かよ……」という嫉妬に満ちた視線が僕たちに突き刺さってくるが、今の僕にはそんなものはどうでもよかった。


「ああ。絶対に離さないよ」


 僕が握られた手を強く握り返すと、りんは嬉しそうに僕の肩に身を寄せた。


 僕たちは手を繋いだまま、目的地の水族館へと向かって歩き出した。

カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。

先が気になった方はそちらもご覧ください。

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