第79話 焦っちゃわないように着実に
秋の気配が少しずつ深まりつつある金曜日の夜。
僕の部屋には、いつもならパソコンの冷却ファンと音楽ソフトの再生音が響いているはずだが、今夜は完全な静寂に包まれていた。
キャスター付きの椅子に深く腰掛け、僕はぼんやりと部屋の片隅を見つめていた。
そこには、一昨日、結城さんにショッピングモールで見立ててもらった新しい服が、ハンガーにかけられて丁寧に吊るされている。
いよいよ明日か……
ついに、凛との初めての正式なデートの日がやってくる。
これまでも海に行ったり夏祭りに行ったりしたことはあったが、それはあくまで他の名目があった。
しかし、明日は違う。
純粋に二人きりで、デートだ。
僕の心臓は、数日前からずっと不協和音のようにうるさく鳴り続けており、今夜に至ってはもはや破裂しそうなほどの高鳴りを見せていた。
『めちゃくちゃ可愛くしてくる』
僕の膝の上に跨り、頬を赤く染めて上目遣いで念を押してきた凛の顔が脳裏にフラッシュバックする。
「……よし。財布の中身は大丈夫。水族館のチケットの予約画面も確認したし、電車の時間も完璧だ」
僕は机の上のスマートフォンを手に取り、何度も確認したはずの経路検索アプリの画面を再び見つめた。
凛をエスコートする男として、明日は絶対に粗相をするわけにはいかない。
ブブッ、と手の中のスマートフォンが短く振動した。
メッセージアプリの通知が光る。
画面に表示されたのは、まさに今、僕が頭の中で考えていた相手からのメッセージだった。
『凛:明日は十時に、駅前の時計塔の前で待ち合わせよね?』
画面に表示されるその名前とアイコンを見るだけで、胸の奥がくすぐったく、甘く締め付けられるような感覚に襲われた。
僕は慌てて画面をタップし、すぐに返信を打ち込む。
『奏多:ああ、十時だね。遅れないように行くよ』
『凛:遅刻したら許さないからね。……ねえ、奏多』
『奏多:どうしたの?』
画面の向こうで『入力中……』の表示が点滅し、数秒の空白の後に新しいメッセージが届いた。
『凛:本当は今すぐ、声が聞きたい。……少しだけ、電話してもいい?』
その直球すぎる甘いおねだりに、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
明日会えるというのに、前夜の今この瞬間すらも僕を求めてくれている。
その事実がたまらなく嬉しくて、僕はベッドにダイブしてクッションに顔を埋めた。
「ズルいなぁ……」
ズルい……本当に凛はズルい。
その可愛いやり取りは僕だけにしてほしい。
『奏多:いいよ。僕も凛の声、聞きたいから』
本音をそのまま文字にして送信する。
しかし、予想に反して、通話の着信画面に切り替わることはなかった。
代わりに届いたのは、凛の不器用で、限界まで我慢しているようなメッセージだった。
『凛:ううん……やっぱり我慢する』
『奏多:え……なんで⁉』
こんなことは今までなかった。
想定外のパターンだ。
『凛:今、奏多の優しい声を聞いちゃったら、明日まで待てなくて、今すぐあなたの部屋に行きたくなっちゃいそうだもの』
なんだ……ものすごくかわいい理由じゃん。
『奏多:それは……僕も同じだよ』
『凛:ふふっ。……明日、期待しててね。あなたの視線、絶対に私から逸らせないようにしてあげるんだから』
テキストの文字面だけで、どうしてここまで人の理性を揺さぶることができるのだろうか。
『奏多:もう十分、君に釘付けになってるんだけどな。僕も、結城さんに選んでもらった服で、凛の隣を歩くのにふさわしいように頑張るよ』
『凛:……やっぱり栞に選んでもらったのね。少し嫉妬しちゃうけど、あなたが私のためにそんなに一生懸命になってくれたのは、すごく嬉しい。……明日、絶対に私だけを見てね』
『奏多:もちろん。おやすみ、凛』
『凛:おやすみなさい、奏多。私の夢を見てね』
最後のメッセージに込められた強烈な独占欲と甘い響きに、僕は完全にノックアウトされ、ベッドの上で一人静かに身悶えするしかなかった。
可愛すぎる。
こんなやり取りをしておいて、どうやって落ち着いて眠れと言うのだろうか。
「お兄ちゃん、入るよー!」
「んおっ⁉」
不意に、ノックもなしに部屋の扉が勢いよく開かれ、妹がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて顔を出した。
手には、差し入れの麦茶が入ったグラスを持っている。
「お前な、ノックくらいしろっていつも言ってるだろ」
「ふふふーん。明日はいよいよ、凛お義姉ちゃんとの初デートでしょ⁉ お兄ちゃん、緊張して眠れないんじゃないかと思って、様子を見に来てあげたの! ……って、なんか顔真っ赤だけど、どうしたの?」
妹は麦茶のグラスを机にコトンと置くと、僕の顔をじっと覗き込んできた。
図星を突かれて、僕は視線を泳がせた。
どうやら、僕は僕が思っていた以上に表情に出るようだ。
「き、緊張なんてしてないさ。ただの外出だろ」
「嘘‼ あんなに素敵な服まで買っちゃって、気合入りまくりじゃん! お母さんもね、『奏多が変なエスコートをして凛ちゃんに愛想を尽かされないかしら』って、すごく心配してたよ」
「母さんまで……」
僕は深いため息を吐いた。
元々、引きこもりがちになっていた僕がデートに出かけるのだ。
家族が心配するのも無理はない。
「でもね、お兄ちゃん」
妹は不意に真面目な顔になり、僕の肩をぽんっと叩いた。
「んだよ」
「凛お義姉ちゃん、お兄ちゃんのこと本当に大好きなんだから、自信持っていいと思うよ。……明日は、お義姉ちゃんを最高に笑顔にしてあげてね!」
「……ああ、わかってるよ」
妹からの素直な励ましに、僕は少しだけ照れくさくなりながら頷いた。
「頑張れー!」
妹はそう言い残して、嵐のように部屋から去っていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻った部屋で、僕はハンガーにかけられた服たちを見上げた。
音楽のパートナーとしてではなく、将来を約束した一人の男として。
明日は凛の隣に堂々と立ち、凛が僕に向けてくれる重たくて甘い愛情を、すべて受け止めよう。
よし、覚悟は決まった。
僕は決意を新たにしながら、明日という日が早く来ることを祈って、静かに目を閉じた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




