第77話 心靡かせて
文化祭の熱狂がすっかり過ぎて、秋の涼しい風が窓から吹き込み、教室のカーテンを揺らしている。
僕は自分の席に座り、ぼんやりと窓の外を眺めながら、ここ数日のことを思い出していた。
頬を赤く染め、上目遣いで念を押してきた凛の顔が脳裏にフラッシュバックし、僕の心臓は朝から不協和音のようにうるさく鳴り響いている。
初めてのデートか……
そんなの、緊張しない方がおかしい。
ため息をつきながら机に突っ伏そうとした、その時だった。
「……ねえ、奏多」
「うわっ⁉ びっくりした⁉」
不意に、真横から甘く涼やかな声が降ってきた。
それは周囲を気にした小声などではなく、静まり返った教室に意外なほどよく響く、はっきりとした声だった。
ビクッと肩を揺らして振り返ると、そこには透き通るような白い肌に、無骨な黒縁眼鏡をかけた凛が立っていた。
な……なんだ凛か。
彼女は僕の机の横にスッと立ち、持っていた文化祭の残務処理のプリントを僕の机の上にバサッと広げた。
「ふ、冬峰さん……どうしたの?」
僕が慌てて声をかけると、凛はピタリと動きを止めた。
そして、先ほどまでの甘い声色が嘘のように、スッと冷たい無表情になり、僕から視線を逸らして窓の外を眺め始めたのだ。
「あの、冬峰さん……?」
再度問いかけても、凛は完全に無視を決め込んでいる。
この距離だ、聞こえていないわけがない。
「ぶーーーー」
凛は唇を少しだけ尖らせて、明らかに不満そうな、拗ねたような態度をとっている。
どうして急に機嫌を損ねたのだろうかと数秒ほど考え、僕はハッと思い当たった。
凛は自分から『奏多』と呼んでくれたのに、僕がいつもの癖で『冬峰さん』と呼んでしまったから、わざと聞こえないふりをしているのだ。
あ……やってしまった。
「……」
僕は背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、そっと教室の周囲を見渡した。
すでにクラスメイトたちの視線が、不自然に僕の机に留まっている凛へと集まり始めている。
早くなんとかしないと、悪目立ちしてしまう。
僕は観念して、周囲には聞こえないような、けれど凛には確実に届く小声で呼びかけた。
「……凛?」
その瞬間だった。
先ほどまで窓の外を向いていた凛が、勢いよくこちらを振り返って笑顔を見せたのだ。
「なあに? 奏多」
甘く、とろけるような返事。
あまりにも分かりやすすぎる凛の反応に、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
ズルすぎる。
こんなの、心臓が持つわけがない。
「それで? どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわよ。……週末の準備、ちゃんと進んでる?」
凛はプリントで手元を隠すようにしながら、ごく自然な動作で僕の机に手をつき、ほんの少しだけ顔を近づけてきた。
プリントの陰で、彼女のひんやりとした指先が、僕の手にそっと触れる。
「あ、ああ……色々と考えてるよ。……ってか、少し距離が……近いんだけど」
僕が周囲を気にして小声で注意すると、凛は悪戯っぽくふふっと微笑んだ。
「いいじゃない。実行委員の事後処理の確認をしているだけよ。……誰も変に思わないわ」
「事後処理なんか……無いくせに」
いや、思っている。
絶対に、変に思われている。
「おい、見ろよ……氷の令嬢が、灰原の席に……」
「ちょっと待て、今、冬峰さん、灰原のこと下の名前で呼んでなかったか⁉」
「えっ⁉ 下の名前呼び⁉ いつからそんな仲に⁉」
「っていうか、冬峰さんのあんなデレデレな柔らかい表情、俺、初めて見たぞ……」
クラスの男子たちから、驚愕と嫉妬、そして探るような視線が、一斉に僕に突き刺さっていた。
無理もない。
誰とも関わろうとしない凛が僕の机に寄りかかり、あまつさえ至近距離で微笑みながら下の名前で呼んだのだから。
「みんな見てるから……! それに、急に名前で呼んだらバレるって!」
「……私だけを見てって、言ったのに」
「それとこれとでは違う気がする……」
凛は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、プリントの下で僕の指に自分の指を絡ませ、キュッと一度だけ強く握りしめてきた。
そして、耳元に顔を寄せ、甘く熱を帯びた吐息混じりの声で囁く。
「……週末、期待してるからね。ちゃんとドキドキさせてよね、奏多」
「はいはい」
凛は最後に僕にだけわかるようにウインクをして、スッといつもの冷たい無表情の仮面を被り直し、自分の窓際の席へと戻っていった。
彼女が去った後も、「灰原爆発しろ……」といったクラス中のざわめきと殺意はしばらく収まらなかった。
だから、凛といると居心地が悪い。
僕は深く、そして重い溜息を吐き出した。
……期待している、か。
クローゼットの中にあるのは、着心地の良さと機能性だけを重視した、地味な色のパーカーやジャージ、無難な無地のシャツばかり。
とてもじゃないが、凛の隣を歩くのに相応しい服なんて、一着も持っていない。
「どうしよう……このままじゃ、水族館に入る前に愛想を尽かされるかもしれない……」
僕は頭を抱え、絶望的な気分に浸っていた。
自分一人で服を買いに行ったところで、店員に勧められるがままに変な服を買わされて終わるのが関の山だ。
誰か、ファッションに詳しくて、僕と凛に詳しくて、的確なアドバイスをくれる人間。
……いや、一人だけいる。
こういう状況に強い人が……
僕は顔を上げ、教室の前方、優雅に文庫本を読んでいるクラスメイトの背中を見つめた。
◇◇◇
その日の放課後。
僕は帰宅の準備をしている結城さんに、声をかけた。
「あの、結城さん。今日、時間取れる? ちょっとお願いがあるんだけど……」
「あら、灰原さん。珍しいですね。 また何か?」
結城さんは瞳をキラリと光らせ、優雅に微笑んだ。
「えっと、音楽のことじゃなくて……その、すごく個人的な相談なんだけど」
「個人的な相談、ですか。……わたくしに頼み事とは珍しいですね。ここだと他の生徒の耳もありますし、少し歩きながら聞きましょうか」
「そうしてくれると助かる」
「……ちょっと待って」
背後から、不満げで冷ややかな声が響いた。
振り返ると、そこにはスクールバッグを抱え、唇を少しだけ尖らせた凛が立っていた。
「……ふゆ……いや、凛」
「栞。奏多をどこに連れて行くの?」
凛の黒縁眼鏡の奥の視線が、僕と結城さんを交互に射抜いている。
完全に嫉妬と独占欲が入り混じった、拗ねたオーラ全開だ。
「あら。灰原さんがわたくしに個人的な相談があるそうですの。今回は、凛には内緒のようですわね」
結城さんが悪戯っぽく微笑んで焚きつけると、凛はさらにむっとした顔になり、僕のジャージの袖をきゅっと掴んだ。
「個人的な相談って何よ。私じゃダメなの?」
「いや、これはその……ちょっと凛には言えないというか……」
これから君とのデートに着ていく服の相談をするなんて、本人に言えるわけがない。
僕が言葉を濁して視線を逸らすと、凛はジト目で僕の顔をじっと見つめた後、小さく息を吐いた。
「……そう。まあ、大体予想はつくけど」
凛は掴んでいた僕の袖から手を離し、今度は結城さんの方へと向き直った。
「栞。今日だけ、奏多を貸してあげる。……でも、変なところに寄り道させないでね。用が済んだら、まっすぐ帰らせてちょうだい」
完全に保護者か、あるいは束縛の激しい恋人のセリフだ。
「長くさせるつもりは毛頭ありませんわ。誰かさんと違って」
「し~~お~~~り~~」
「オホホホホ、さて、灰原さん、凛の許可も下りましたし、行きましょうか」
「あ、ああ」
結城さんは悪戯な笑みを浮かべながら一緒に学校を出て、駅へと続く通学路を歩き始めた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




