第76話 解像度の悪い夢を見たい
ガチャリ。
不意に、部屋の重たい扉が開く音がした。
振り返ると、そこにはお風呂上がりの凛が立っていた。
ネイビーのルームウェアに身を包み、少し湿気を帯びた艶やかな黒髪から、ポタリと水滴が落ちる。
お風呂上がりの上気した透き通るような白い肌が、間接照明だけの薄暗い部屋で妖しく浮かび上がっていた。
石鹸の匂いと、彼女特有のフローラルな甘い香りが入り混じり、部屋の空気を一瞬にして濃密なものに変えてしまう。
「……お待たせ、奏多。お風呂、ありがとう」
「あ、ああ。そりゃ良かったよ」
凛は迷うことなく部屋の中に入ってくると、僕の座るキャスター付きの椅子に近づき、そのまま僕の膝の上にゆっくりと跨るようにして密着してきた。
「ちょっ……凛さん⁉」
「いいじゃない。……お風呂で、妹ちゃんといっぱいお話をしてきたのよ」
僕の太ももに感じる凛の柔らかな重みと、お風呂上がりの少し高めの体温。
濡れた髪が僕の頬をくすぐり、熱い吐息が首筋にかかる。
僕の中で引き締まったはずの理性が、一瞬でショート寸前まで追い込まれる。
「話って……何を話してたんだよ」
「ふふっ、それはヒミツ。女の子同士の特権だもの」
凛は悪戯っぽく微笑みながらも、その瞳の奥には微かな優越感が揺らめいていた。
「ただね……奏多が私のことを大好きだってこと、妹ちゃんにもしっかり伝えておいたわ」
「っ……‼ お前、妹になんてことを……!」
「だって事実でしょ? あなたは私のことが好きで、私もあなたのことが大好きなの。……誰にも渡さないわ。あなたの音も、心も、全部私だけのものなんだから」
「そりゃ……そうだけどさ」
凛は僕の胸元に顔を埋め、ぐりぐりと頭を押し付けてきた。
彼女の強烈な独占欲と愛情が、僕の全身を甘く痺れさせていく。
僕も無意識のうちに、彼女の華奢な背中に腕を回し、その温もりを逃がさないようにそっと抱きしめていた。
「……奏多、長かったわね」
「ん?」
「お母様の説教よ」
僕の胸の中から、凛がぽつりと呟いた。
「なんだ、気づいていたのか」
「私じゃないわよ、妹ちゃんがね。ああ言う時は、説教の時だって」
こういう時は勘が鋭い妹なので、兄としてはかなり困る。
「まあ、当然と言われたら当然かな。こんなに可愛い女の子を二日も無断で泊まらせたんだから……でも、母さんが君のお母さんにも電話してくれて、親同士もすっかり意気投合してたみたいだ」
「ママと? ……そう。なんだか、外堀をどんどん埋められているみたいで、少し恥ずかしいわね」
「でも、君との時間に比べたら短いよ」
僕が真剣な声で告げると、凛は顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見つめ返した。
「そうね。……私の居場所は、もうあなたの隣しかないもの」
静かな部屋の中に、二人の重なり合う心臓の音だけが響いている。
クーラーが効いているはずなのに、僕たちの体から発せられる熱気で、部屋の温度は上がり続けていた。
僕は、凛の湿った黒髪を優しく撫でながら、ずっと考えていたことを口にした。
「……ねえ、凛。今度の休み。空いてるか?」
「ちょっと待ってて、空いてるとは思うけど確認するから」
「分かった」
凛はスマートフォンを取り出すと、スケジュールを確認し始めた。
なんか……ドキドキするな。
そこから数分後、スマートフォンを閉じた凛は僕に向いて言う。
「空いてるわよ。それで? 新曲の相談?」
「いや……その…だな」
あ……ダメだ。
この先が何も出てこない。
必死感がすごいかも……なんか、今までの雰囲気と違いすぎて、ちょっとキモいか。
「何よ? ちゃんと言わないとダメよ」
いや……大丈夫、大丈夫だ。
「今度の休みなんだけど、一緒に遊ばないか?」
「それは……ココで? それとも外で?」
「……あ、デート、です」
「えっ……?」
凛の動きがピタリと止まり、彼女は目を丸くして僕の顔を覗き込んできた。
「デ、デート……?」
「うん。デート」
僕がはっきりと頷くと、凛の透き通るような白い頬が、みるみるうちに茹でダコのように真っ赤に染まっていった。
「だ、だって……私たち、今までも海に行ったり、夏祭りに行ったりしたじゃない……!」
「海は結城さんが言い出したこと、夏祭りは実行委員の打ち上げも兼ねてっていう、別の目的があっただろ? そうじゃなくて……純粋に二人きりで、遊びに行きたいんだ」
僕は凛から視線を逸らさずに、言葉を紡いだ。
「ただのクラスメイトやユニット仲間ではなく。二人きりで、デートしよう」
「……おっけーです」
凛はそう呟くと両手で口元を覆い隠し、信じられないものを見るような目で僕を見つめている。
「奏多と……二人きりで、デート……」
「嫌、だったか?」
「嫌なわけないじゃないっ!」
凛は食い気味に叫び、再び僕の首に強く両腕を回して抱きついてきた。
「……嬉しい。奏多から誘ってくれるなんて、夢みたい……っ」
凛の声は微かに震え、嬉し涙が滲んでいるのがわかった。
「……それで、どこに行きたい?」
僕が凛の背中を優しく撫でながら尋ねると、凛は僕の胸に顔を埋めたまま、うーんと小さく唸った。
「そうね……奏多と二人きりになれる場所なら、どこでもいいわ」
「それだと決められないだろ。映画館とか、遊園地とかはどう?」
「映画は上映中はお話しできないし、遊園地は人混みでうるさいわ。それに、外は暑いのは嫌」
インドア派の凛らしい、的確な却下理由だった。
「そうか……ショッピングモールで買い物とかは?」
「それも、知り合いに会うかもしれないから少しリスキーね。あまり目立つ場所は避けたいわ」
「確かに……じゃあ、涼しくて、人混みも少なくて、ゆっくり話せて、二人きりの世界に浸れるような場所……」
僕が頭を悩ませていると、凛がふと顔を上げ、目をキラリと輝かせた。
「……ちょっと遠いけど、水族館なんて、どうかしら?」
「水族館?」
「ええ。館内はクーラーが効いていて涼しいし、照明も薄暗くて幻想的でしょ? それに、水槽の青い光の中でなら、手を繋いで歩いても変じゃないわ」
凛は少しだけ上目遣いになり、恥ずかしそうに頬を染めながら提案してきた。
うーむ……薄暗くて、幻想的な空間か。
青い光に照らされた凛の横顔を想像しただけで、僕の心臓は再びドクンと大きな音を立てて跳ねた。
正直、惚れるな。
「……それ、すごくいいな。水族館に行こう」
「本当⁉ やったぁ……!」
凛は子供のように無邪気に喜び、僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
「痛い……痛い」
「水族館なら、可愛い熱帯魚とか、大きなサメとか、綺麗なクラゲの展示もあるし……それに、イルカのショーも一緒に見られるわね」
「ああ。二人でゆっくり回ろう。……もちろん、手も繋いだままでいいよ」
「っ……!」
僕が少しだけからかうように言うと、凛は息を呑み、さらに顔を真っ赤にした。
「……当たり前よ。離したら、許さないんだから」
「分かった、離さないよ」
甘く、そして独占欲に満ちた言葉が、僕の耳元で囁かれる。
「そうだ、お弁当、私が作っていこうかしら」
「えっ、凛が料理するの? 大丈夫?」
「バカにしないで。最近、栞に教わりながら、少しずつ練習してるんだから。……あなたに、美味しいって言ってもらいたいもの」
「それは……すごく楽しみだ」
「ふふっ、期待してて。それに、水族館なら薄暗いから、大胆なこともできちゃうかもしれないわね」
「大胆なことって……」
「例えば、誰も見ていない巨大水槽の陰で……」
凛はそう囁くと、僕の首に回していた腕に力を込め、自分の顔をゆっくりと近づけてきた。
彼女の長い睫毛が微かに震え、潤んだ瞳が僕の唇を真っ直ぐに捉えている。
吐息が完全に混ざり合うほどの至近距離。
「っ……凛、それは……」
「……キスは、まだしないわよ」
凛は悪魔のように、けれどこれ以上ないほどに甘くとろけた笑顔を見せ、僕の頬にちゅっ、と軽いキスを落とした。
翻弄されっぱなしの僕は、ただ顔を赤くして彼女の柔らかな重みを受け止めることしかできなかった。
僕が言い出したことではあったけど、だからと言って頬にしていいとは言ってない。
「ふふっ。今度の休みにデ、デートするならちゃんと着ていく服を考えること。私、めちゃくちゃ可愛くしてくる。だから、奏多もオシャレしてくること」
「うーん、今の服たちは機能性は良いんだよ……」
「ダメよ。あのお洋服で来たら本当に怒るわよ」
「はい……」
僕はしょんぼりしながらクローゼットに掛かっている洋服たちを見つめた。
……頑張るか、もっと。
凛の隣に立っていられるように……
僕の胸は、かつてないほどの期待と、心臓が破裂しそうなほどの高鳴りで満たされていた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




