第75話 その時になったって遅いんだから
奏多の妹ちゃんに強引に腕を引かれ、私は一階の洗面所へと連れ込まれた。
バタン、と扉が閉まると、リビングから聞こえていた奏多とお母様の声が完全に遮断される。
「ふぅ……よしっ、作戦大成功‼ 危なかったね、凛お義姉ちゃん」
妹ちゃんは洗面所の扉に背中を預け、イタズラが成功した子供のようにニシシと笑った。
「作戦……?」
私が不思議そうに首を傾げると、妹ちゃんは洗面台の鏡の前で得意げに胸を張った。
「今頃、お兄ちゃんはお母さんにガッツリ絞られてる頃かなーって思って!」
「奏多、お説教されているの?」
「だって、いくら文化祭の準備だからって、お義姉ちゃんみたいな可愛い女の子を二日も無断外泊みたいに泊まらせちゃったんだよ? お母さん、お義姉ちゃんの前ではニコニコしてたけど、お兄ちゃんには絶対お説教するって顔してたもん。だから私、気を利かせてお義姉ちゃんをお風呂に連れ出したの!」
奏多には少し申し訳ない気もするけれど、彼のお母様がそれだけしっかりと私のことを考えて、彼を叱っているという事実が、私の胸の奥を不思議なほど温かくしてくれた。
「さあさあ、お義姉ちゃん! 早くお風呂入ろ! 昨日はシャワーだけだったから、ゆっくり温まってね!」
妹ちゃんに急かされるまま服を脱ぎ、二人で湯気の立ち込める浴室へと足を踏み入れた。
温かいお湯が、昨日の文化祭の緊張感と、強張っていた体をゆっくりと解きほぐしていく。
「お義姉ちゃん、背中流すね!」
「ありがとう。……でも、お義姉ちゃんって呼ばれるのは、まだ少し恥ずかしいわ」
私が素直な気持ちをこぼすと、妹ちゃんは私の背中をスポンジで優しく擦りながら、楽しそうに笑った。
「えー? だって、お兄ちゃんのこと『奏多』って呼んでるし、将来を見据えてるって言ってたじゃん! だから家族みたいなものだよ!」
家族。
その言葉の響きに、私は思わず目を伏せた。
私の家は両親が不仲で、大学生の兄もほとんど家に帰ってこない。
会話のない冷え切った家の中で、私はずっと一人で息を潜めて生きてきた。
だからこそ、この灰原家の、賑やかで、温かくて、愛に溢れた空気がたまらなく心地よかった。
大好きな奏多が育った、この温かい場所。
ここが私の本当の居場所になればいいのにと、心の底から願ってしまう。
「……ねえ、凛お義姉ちゃん」
湯船に浸かり、二人で肩までお湯に浸かっていると、不意に妹ちゃんが真剣な声色になった。
「どうしたの?」
「私ね、お義姉ちゃんにお礼が言いたかったの」
妹ちゃんは、お湯の表面を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「お兄ちゃんね、中学の時にあることがきっかけで……毎日、死んだ魚みたいな目をしてたの。笑うことも前より少なくなって、ずっとお兄ちゃんのこと心配だったんだ」
妹ちゃんの声が、微かに震えていた。
一番近くで奏多を見ていた彼女にとって、彼がネットの誹謗中傷に傷つき、大好きな音楽を捨てて心を閉ざしてしまったことは、どれほど悲しいことだっただろう。
「……そう……そうだったのね」
「でもね! 最近はすっごく楽しそうにしてて、お義姉ちゃんや結城さんが遊びに来てくれるようになってから、お兄ちゃんの顔がどんどん明るくなっていったの!」
妹ちゃんは顔を上げ、潤んだ瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「お兄ちゃん、お義姉ちゃんたちと一緒にいるのが、本当に楽しいんだと思う。よく笑うようになったし、なんだかすごく生き生きしてる。……お兄ちゃんを、また笑顔にしてくれて、明るくしてくれて、本当にありがとう」
妹ちゃんの真っ直ぐな感謝の言葉を聞いて、私は内心でハッとした。
――この子は、奏多がまた音楽を始めたことを知らないのね。
妹ちゃんは純粋に、私が奏多の家に遊びに来るようになったから、彼が明るくなったのだと思っているのだ。
彼は家族に心配をかけまいと、音楽のことは完全に秘密にしているのだ。
その事実を悟った瞬間、私の胸の奥に、甘くドロドロとした黒い感情が広がっていくのを感じた。
奏多が世界中を熱狂させる音を作っているという秘密を、一番近くにいる家族や幼馴染の女の子すら知らない。
絶対に、誰にも渡さない。
彼の音も、彼の心も、すべて私だけのものだ。
「ううん。お礼を言うのは私の方よ」
私は、溢れ出しそうになるドロドロとした感情を必死に抑え込みながら、妹ちゃんの手をお湯の中でそっと握った。
「私の方こそ、彼に救われたの。……私ね、彼のことが、本当に大好きなの。誰にも渡したくないくらい」
私が隠すことなく強烈な独占欲を露わにすると、妹ちゃんは目を丸くした後、ぱぁっとひまわりのような明るい笑顔を咲かせた。
「えへへっ! お義姉ちゃん、最高! お兄ちゃんにはもったいないくらいだよ!」
しんみりとした空気はそこで終わり、妹ちゃんはいつもの意地悪な笑みを浮かべて、私にじりじりと距離を詰めてきた。
「でねでね! ここからは女子同士のナイショ話なんだけど!」
「な、なに……?」
「お義姉ちゃん、お兄ちゃんと、どこまで進んでるの⁉」
「えっ⁉」
突然の直球すぎる質問に、私はお湯でのぼせた以上に顔を真っ赤にしてしまった。
「だって、下の名前で呼び合ってるし、昨日の夜だって二人きりで部屋にこもってたじゃない! 絶対、ただお話ししてただけじゃないでしょー? ……キスくらいは、もうしたの⁉」
「き、キスなんて……!」
私の脳裏に、防音室で彼の上に跨り、唇を重ねようとしたあの瞬間の記憶が鮮明にフラッシュバックする。
あの時は、恥ずかしさに耐えきれなくて、彼の頬にしかできなかった。
「まだ……その、まだ……」
「えーっ⁉ それは、お兄ちゃんがヘタレすぎ! こんなに可愛いお義姉ちゃんが一緒のお部屋にいるのに、何にもしないなんて信じられない!」
「ち、違うの‼ 彼がヘタレなんじゃなくて……彼が……待ってほしいって……」
私が必死に彼を庇って弁解すると、妹ちゃんは「ふーん?」と面白そうに目を細めた。
「それは、お兄ちゃんらしいといえばお兄ちゃんらしいけど。……でも、お義姉ちゃんはもっとイチャイチャしたいんでしょ?」
「っ……⁉」
図星を突かれ、私は両手で顔を覆い隠して湯船に深く沈み込んだ。
……ええ、そうよ。
本当は、四六時中、奏多に甘えたい。
彼の温もりも、匂いも、狂おしいほどに速い心臓の音も、すべてを私だけで独占したい。
「もう……お義姉ちゃん、可愛すぎる! お兄ちゃんが羨ましいなぁ!」
妹ちゃんはクスクスと笑いながら、私に抱きついてきた。
妹ちゃんとのお風呂を終え、脱衣所で身支度を整えながら、私の頭の中はもう奏多のことでいっぱいになっていた。
「……よしっ」
ドライヤーで髪を乾かしながら、私は鏡に映る自分自身の顔を見た。
そこには、ただひたすらに大好きな相手を求め、恋に落ちきった、甘く上気した少女の顔があった。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




