第74話 歩き続けることでしか届かないもの
「あ、そうだ! 凛お義姉ちゃん!」
不意に、食器の片付けを終えた妹が、僕たちの間に明るい声で割り込んできた。
「朝のお風呂、一緒に入ろー! 昨日は遅かったからシャワーだけだったでしょ? 私が背中流してあげる!」
「えっ……? でも、ご迷惑じゃ……」
「いいからいいから! ほら、女の子同士のナイショ話もしたいし! 行こっ!」
妹は凛の腕を強引に引き、洗面所の方へと連れて行こうとする。
「あ、ちょっと待って。……凛ちゃん」
「はい、お母様。何でしょうか?」
凛が立ち止まり、礼儀正しく振り返る。
「もしよかったら、凛ちゃんのお家の電話番号を教えてもらえるかしら? 昨日は急にお泊まりさせてしまったし、ご家族の皆様にはご心配をおかけしたと思うの。私からも、親としてきちんとご挨拶とお詫びをしておきたいから」
母さんの言葉に、僕はハッとした。
確かに、高校生の娘を二日も無断外泊に近い形で預かっているのだ。
先ほど僕が電話で少し挨拶をしたとはいえ、親同士のきちんとしたやり取りがないのは非常識極まりない。
「あ……はい。もちろん。お気遣いいただき、ありがとうございます」
凛は少し恐縮したように微笑み、自分のスマートフォンを開いて母親の電話番号を母さんに伝えた。
「ありがとう。それじゃあ、お風呂でゆっくり温まってきてね」
「はい。失礼いたします」
凛はぺこりと頭を下げ、妹に腕を引かれるようにして洗面所へと向かっていった。
リビングには、僕と母さんの二人だけが取り残された。
「さて、僕は部屋に戻……」
「……待ちなさい、奏多」
背後から響いた母さんの声は、先ほどまで凛に向けていた温和なものとは全く違い、地を這うような冷たさと厳しさを帯びていた。
「……はい」
僕が恐る恐る振り返ると、そこには般若のような、真剣で厳しい顔をした母親が立っていた。
まあ……そう、だよなぁ。
「座りなさい」
「はい」
母は僕をダイニングチェアに座らせると、自らも正面に座り、両手をテーブルの上で組んで僕をギロリと睨みつけた。
「あんたねえ! 女の子を二日連続で泊めるなんて、どういう神経してるの!」
「いや、それは……一昨日は文化祭の準備でどうしても徹夜になっちゃって……昨日はその、打ち上げの後で遅くなったから……」
「言い訳しない! 一昨日は準備、昨日は打ち上げで遅くなったからって、女の子を二日も男の部屋に泊まらせて! いくら私が親として見ているからって、高校生として限度ってものがあるでしょう!」
「……すいません」
僕はぐうの音も出ず、深く頭を下げた。
「それに! 一番の問題はさっきの電話よ! あちらのお母様との通話、聞いてたわよ。昨日の夜の時点で『今日は友達の家に泊まる』ってメッセージを送っただけだったなんて、どういうこと⁉」
「うっ……それは……」
昨日の夜は、極限の緊張感から解放された安堵と、凛からの突然の告白、その他諸々、怒涛の展開で、正直そこまで頭が回っていなかった。
「あちらのご両親からしたら、年頃の娘がどこの誰の家に泊まってるかも分からない状態で一晩過ごしたってことなのよ! なんで昨日の夜のうちに、あんたから『うちで責任を持ってお預かりします』って電話一本入れさせなかったの‼」
「……はい。完全に僕の配慮不足です」
「あちらのお母様が優しい方で助かったけど、普通なら激怒して乗り込んでこられても文句言えないわよ! あんたが『大切にします』なんて立派なこと言うなら、相手の親御さんにもちゃんと誠意と責任を見せなさい‼」
「……はい。その通りです。本当に申し訳ない」
僕は反論する余地もなく、ただひたすらに平謝りするしかなかった。
母さんの言うことは百パーセント正しい。
凛のことが好きすぎて、一緒にいる甘い空間に完全に溺れてしまっていた。
「まったく……凛ちゃんの前だからニコニコしてたけど、こっちは内心ヒヤヒヤだったんだからね。大切な女の子なんでしょ? これからは男として、もっとしっかりしなさい!」
「……はい。肝に銘じます」
母さんの愛のある、けれど強烈な説教に、僕はすっかり小さくなってしまった。
「わかればいいのよ。……それじゃあ、私からお電話しておくから、あんたは静かにしてなさい」
母さんは自分のスマートフォンを取り出し、先ほど凛から聞いた番号へと発信した。
少しのコールの後、電話が繋がる。
母さんの表情がスッと引き締まり、声のトーンが一段上がって上品なよそ行きのものに変わる。
「もしもし、冬峰様のお電話でしょうか。……朝早くに申し訳ございません。灰原 奏多の母でございます」
電話の向こうから、凛のお母さんの声が微かに漏れ聞こえてくる。
「ええ、この度はうちの息子が、凛さんを急にお泊まりさせてしまいまして、本当に申し訳ございませんでした。ご家族の皆様にはご心配をおかけいたしました」
母さんは電話口で深く頭を下げながら、丁寧に謝罪の言葉を紡いでいく。
「いえいえ、親として当然のことです。……ええ、凛さんは本当にしっかりとした、礼儀正しいお嬢さんで。うちのような騒がしい家でよろしければ、いつでも歓迎いたします」
どうやら、凛のお母さんは怒っている様子はなく、穏やかに対応してくれているらしい。
僕は少し離れた席から、安堵のため息を吐きながらそのやり取りを見守っていた。
「ええ、昨日は文化祭の実行委員の仕事で、夜遅くまで残っていたみたいでして。……ええ、そうなんです。うちの息子と随分と頑張っていたようで。息子も、凛さんにはとても助けられていると申しておりました」
母さんが僕の方をチラリと見て、悪戯っぽく微笑む。
「あら、まあ。凛さんがうちの息子のことを? ふふっ……なんだか恥ずかしいです」
親同士の電話が、単なる謝罪から、徐々に子供たちの世間話へとシフトしていく。
一体、凛のお母さんは何を言っているのだろうか。
気になるが、それを聞くのは野暮というものだろう。
「ええ、ええ。息子は少し不器用なところがございますが、凛さんのことは本当に大切に思っているようです。……ええ、これからも親同士、どうぞよろしくお願いいたします。はい、失礼いたします」
和やかな雰囲気のまま、母さんは通話を終了し、スマートフォンをテーブルに置き、ふうっと息を吐き出す。
「……終わったよ。すごく優しくて上品な方だったわ。あんたが粗相をしたのに、全く怒っていらっしゃらなかったわよ」
「そ、そうか。よかった……」
「それにしても」
母さんは腕を組み、僕の顔をじっと見つめてきた。
「あんたみたいな不器用な息子にはもったいないくらいのお嬢さんね。向こうのお母様も、『凛があんなに楽しそうに男の子の話をするのは初めてだ』って、すごく喜んでいらしたわよ」
「えっ……」
学校では誰とも関わろうとしない凛が、家では僕の話を楽しそうにしている。
その事実を突きつけられ、僕の顔は一瞬で熱くなった。
「相手の親御さんも、あんたのこと信頼してくれてるみたいよ。……絶対に泣かせるんじゃないわよ。もし凛ちゃんを悲しませるようなことをしたら、私が許さないからね」
「……わかってるよ」
「それなら良いわ」
僕が真っ直ぐに答えると、母さんは満足そうに頷いた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




