第70話 そう言って大人びたフリをする
「……ねえ、灰原くん」
しばらく僕の胸の中で甘い余韻に浸っていた冬峰さんが、不意に上目遣いで僕を覗き込んできた。
「なに?」
「今日は……帰りたくない。このまま、泊まっていきたい」
「えっ……⁉」
突然のおねだりに、僕は思わず声を裏返してしまった。
「な、何言ってるんだよ。さすがに二日連続はマズイだろ……ちゃんと家に帰らないと……」
「いいじゃない。昨日の今日なんだから、灰原くんのお母様にだって『打ち上げで疲れて寝ちゃった』って言えば誤魔化せるわよ。それに、今日は正真正銘、私たち二人きりだもの」
冬峰さんは僕のジャージの袖をきゅっと掴み、潤んだ瞳で必死に訴えかけてくる。
「でも、着替えとか……」
「昨日のルームウェアがあるわ。……お願い、灰原くん。今日は絶対に、あなたから離れたくないの」
その言葉には、僕との新しい約束を交わしたことでさらに爆発した、冬峰さんの強烈な独占欲と愛情が込められていた。
親がいるお泊まりとはいえ、二人きりで夜を明かすなど、男子高校生としての理性が持つかどうか全く自信がない。
ましては、つい十分前には告白してきた大好きな相手だ。
正直、僕も帰したくない。
「……わかったよ。でも、本当に寝るだけだからな」
「ふふっ。ありがとう、灰原くん。……でも、寝るまでの時間は、たっぷりご褒美をもらうわよ」
冬峰さんは満足そうに微笑むと、シャワーを浴びるために部屋を出て行った。
バタンと扉が閉まり、一人残された部屋で、僕はベッドの端に座り込み、深く、そして長い溜息を吐き出した。
「やりすぎた……」
……信じられない一日だった。
日中は文化祭委員としての仕事、クラスの出し物、夜は体育館の暗闇の中で、ライブをやってのけた。
そして家に帰ってきて、冬峰さんからの告白。
あまりにも、ジェットコースターのような感情の起伏に、僕の脳の処理能力は完全に限界を突破していた。
「完っ全にやってしまったなぁ……」
時計の秒針の音だけが聞こえる部屋で、僕は自分の右頬にそっと手を当てた。
そこには、冬峰さんの震える唇の柔らかい感触と、火傷しそうなほどの熱が、まだはっきりと残っている。
これは、嘘じゃないんだよな。
そして今、僕の家の一階にあるお風呂で、冬峰さんがシャワーを浴びているという事実。
シャワーの水音が二階まで聞こえてくるわけではないが、想像するだけで顔から火が出そうになり、僕は両手で頭を抱え込んだ。
僕は、冬峰さんがこんなにも好きなのだ。
昨日までは全く感じなかった感覚に気づかされた。
「……心臓が、持たないよ」
冬峰さんの重たくて甘い感情のすべてを真正面から受け止めると決めたのだから、僕も男としてしっかりしなければならない。
そう自分に言い聞かせるが、高鳴る鼓動はどうしても収まってくれなかった。
◇◇◇
シャワーを浴び、昨夜と同じネイビーの薄手のルームウェアに着替えた冬峰さんが、部屋に戻ってきた。
少し湿気を帯びた艶やかな黒髪と、お風呂上がりの上気した白い肌が、間接照明だけの薄暗い部屋で妖しく浮かび上がっている。
僕はすでにベッドの隅で身を固くして座っていた。
「……お待たせ」
「あ、ああ。いや、全然待ってない」
僕はすでにベッドの隅で身を固くして座っていたが、冬峰さんは迷うことなく僕のベッドに上がり込み、僕のすぐ隣にぴたりと体を寄せて横になった。
「ほら、灰原くんもこっちに」
「は、はい」
甘く囁かれ、僕はロボットのようにぎこちない動きで冬峰さんの方へと体を向けた。
向かい合って添い寝をする形になる。
しばらく見つめ合っていた冬峰さんが、不意に口を開いた。
「ねえ……灰原くん」
「どうしたの?」
「……ううん。ねえ、……奏多って、呼んでもいいかしら?」
不意の提案に、僕は思わず目を見開いた。
「……急だね」
「だって、私たち、もうただの友達じゃないもの。お互いが好き同士。結婚を前提としたお付き合いをするなら苗字呼びは変でしょう?」
冬峰さんはほんのりと頬を赤く染めながらも、僕の目から視線を逸らさずに言葉を紡ぐ。
「それに……日向さんがあなたのことを『奏多』って呼ぶのが、ずっと羨ましかったの。幼馴染だからって、あの子だけがあなたの下の名前を親しげに呼んでるのが、ずっと嫌だった」
冬峰さんの言葉に込められた、強烈な嫉妬と独占欲。
僕が花穂と一緒にいるのを見るたびに、冬峰さんは密かにそんな思いを抱えていたのだ。
本当に……冬峰さんは不器用なんだから。
「そんなこと気にしてたのか」
「気にするに決まってるじゃない。私はあなたの特別になりたいの。だから……これからは、奏多って呼ぶわ。……ねえ、いいでしょ?」
上目遣いで懇願してくるその潤んだ瞳に、抗えるはずがなかった。
「……わかった。凛が良いなら、いいよ」
僕がそう答えて、彼女の名前を呼んだ瞬間。
凛は一瞬きょとんとして目を丸くし、やがて顔を真っ赤に染め、ぱぁっと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「……凛。私のこと、凛って呼んでくれたのね」
「君が奏多って呼ぶなら、僕も凛って呼ぶべきだろ」
それに、いつかはそう呼びたいと思っていた。
「……奏多」
「……凛」
「「ふふっ……」」
互いの名前を呼び合うだけで、部屋の空気がさらに何倍も甘く、そして濃密になっていくのを感じた。
学校では決して見せない、凛の極上の笑顔が、僕の視界を埋め尽くしている。
「もう一回、呼んで?」
凛が、甘えるようにすり寄ってきて、僕の目を見つめながらおねだりをしてくる。
「……凛」
「んふふ……奏多、奏多……」
まるで、初めて手に入れた宝物の名前を確かめるように、凛は何度も僕の名前を口にした。
その度に凛の頬はさらに赤く染まり、僕自身の顔も火を噴きそうなほど熱くなっていく。
自分の下の名前が、凛の唇から紡がれるだけで、こんなにもくすぐったくて、嬉しくて、そして心臓が締め付けられるほどに愛おしく感じるとは思わなかった。
「なんか変な感じだな」
「そうね……変な感じ。でも、すごく幸せ」
凛は僕の胸に顔を埋めるようにしてすり寄り、あろうことか、シーツの中で自分の足を僕の足に絡ませてきたのだ。
「ちょっ……凛‼ 密着しすぎだって!」
「いいじゃない。今日はご褒美なんだから」
凛は僕の抗議など全く意に介さず、僕の体に自分のすべてを預けるようにしてしがみついてきた。
ルームウェアの薄い生地越しに伝わってくる柔らかな感触と、少し高めの体温。
「んふふ……奏多の匂い、すごく落ち着く。……今日は、忙しくて汗をかいたはずなのに、なんだか甘い匂いがするわ」
「それは、昨日、凛が使ったシャンプーの匂いが移ったんだろ……」
「そうかしら。なら、もっと移してあげる」
凛は僕の首筋に顔を寄せ、猫のようにすりすりと頬を擦り付けてくる。
首元に熱い吐息がかかるたび、僕の背筋にゾクゾクと甘い電流が走った。
「ねえ、奏多。私の心臓の音、聞こえる?」
凛の胸元が僕の胸にぴったりと押し当てられ、ドクン、ドクンと狂おしいほどに速い脈動が直接伝わってくる。
「……うん、すごくうるさい」
「あなたの心臓も、同じくらい速いわ。……私たち、これで本当に一つになれた気がする」
凛はそっと僕の顔を見上げ、潤んだ瞳で僕を真っ直ぐに捕らえた。
ひんやりとした指先が、僕の頬から顎のラインをなぞり、そっと僕の唇を撫でた。
「愛してるわ、奏多」
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




