第67話 あのね。わたし……
「では、また月曜日に」
そう結城さんは言い残し、颯爽と部屋を出て行った。
一階から玄関の扉が閉まる音が聞こえ、部屋には僕と冬峰さんの二人だけが残された。
完全な静寂と、少しだけメイン照明を落とした薄暗い部屋。
先ほどまでの賑やかな祝杯の空気が霧散し、途端に濃密で、むせ返るほどに甘い空気が漂い始める。
「……帰っちゃったね」
「そうね。……やっと、邪魔者がいなくなったわ」
「冬峰さんは結城さんを何だと思っているんだ」
「もちろん、親友よ。今回もたくさん助けられちゃった」
冬峰さんはラグの上に座っていた姿勢からゆっくりと立ち上がり、僕の目の前へと歩み寄ってきた。
お風呂に入ったわけでもないのに、ライブの熱気と彼女特有のフローラルな甘い香りが、部屋の空気を満たしていく。
「改めて、お疲れ様、灰原くん。……あなたのキーボード、本当にかっこよかったわ」
冬峰さんは僕のすぐ隣で立ち止まると、スッと両手を伸ばし、僕の首に腕を回してギュッと抱きついてきた。
「ちょっ……冬峰さん?」
「……約束、覚えているわよね?」
胸元に顔を押し付けられ、冬峰さんの柔らかな体温と、狂おしいほどに速い心拍数が直接伝わってくる。
「……約束?」
「とぼけないで。ライブが大成功したら……私に、最高の『ご褒美』をくれるって言ったじゃない」
そう……忘れてなんかいなかった。
「あ、ああ……そうだったな。でも、ご褒美って具体的に何を……」
僕が震える声で尋ねると、冬峰さんは悪戯っぽく微笑み、僕の耳元にスッと顔を近づけた。
甘く湿った吐息が、僕の鼓膜をくすぐる。
「……私の欲しいものが、わからないほど鈍感じゃないでしょ?」
「っ……」
「ずっと……ずっと邪魔が入ってできなかったこと。……今日は、絶対に」
冬峰さんのひんやりとした滑らかな指先が、僕の首筋からうなじへと回り込み、優しくなぞるように這っていく。
ただでさえ密着しているのに、そこからさらに距離が縮まり、熱い体温が僕の胸元に直接伝わってきた。
「はぁー♡ はぁー♡ はぁー♡」
冬峰さんの吐息が荒くなり、僕の首筋に触れるか触れないかのギリギリの距離を保つ唇の気配が、僕の理性を容赦なく削り取っていく。
「ねえ、灰原くん」
これ以上は危険だ。
そう警鐘を鳴らす僕の思考とは裏腹に、体は完全に冬峰さんの引力に囚われて動かすことができなかった。
「灰原くん、灰原くん。キス……キス、しよ?」
「冬峰、さん……待って」
「待てない。……今日は……今日くらいはちゃんとしなきゃ。私、どうにかなってしまいそうだから」
冬峰さんは一切聞く耳を持たず、そのまま僕の体をゆっくりと後ろのベッドの方へと押し倒すように体重をかけてきた。
僕はたまらずベッドの縁に腰を下ろす形になり、冬峰さんはそのまま僕の太ももの間に滑り込むようにして、僕の膝の上に跨ってきた。
完全に逃げ場を失った……
「だからね、キス……しよう? 逃げないで。……私だけを見て」
そこにあるのは、堰を切ったように溢れ出そうとしている、重たくて、熱くて、どうしようもないほどの『愛情』そのものだった。
「冬峰さん、ダメ。それ以上は」
「なんで……なんでよ! 灰原くんのバカっ‼ 私の気持ち、わかってるくせに‼」
「‼」
不意に、冬峰さんの目からポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
透き通るような白い頬を、一筋の涙が伝って落ちていく。
冬峰さんは僕の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で、けれど痛いくらいに真っ直ぐな言葉を紡ぎ始めた。
「私……ずっと、ずっと我慢してたの。あなたが日向さんと親しげに話しているのを見るたびに、胸が張り裂けそうになるのを必死に堪えてた」
「……」
「本当は、学校でもあなたに話しかけたかった。あなたの隣を歩きたかった。……でも、あなたの静かな日常を壊したくなかったから、我慢したの。……あなたが、私から離れていってしまうのが、一番怖かったから」
冬峰さんの細い両腕が、僕の背中へと強く、強く回される。
僕を絶対に手放さないとばかりに、指先が僕のジャージの背中をきゅっと掴んでいた。
ああ……そうか。
学年一の美少女と持て囃されながらも、誰とも関わろうとしなかった冬峰さん。
そんな冬峰さんが、どれほどの孤独と嫉妬を胸の内に飼い慣らしながら、この数ヶ月間を過ごしてきたのか。
僕が花穂と弁当を食べている時も。
夏祭りの夜、僕が花穂と電話で話していた時も。
林間学校で、僕が他のクラスメイトと会話を交わしていた時も。
冬峰さんはずっと、見えない中で、僕への狂おしいほどの独占欲を必死に抑え込んでいたのだ。
その重たい感情のすべてが、今、決壊したダムのように僕に向かって押し寄せてくる。
「そうか……」
「あなたの曲を歌うたびにね、あなたが私の中に流れ込んでくるみたいで……苦しくて、でもすごく幸せだった。……あなたの音がなければ、私は今でも空っぽのままだったわ」
冬峰さんは涙声のまま、僕の胸元に何度も顔を擦り付けた。
彼女の涙で、僕のジャージの胸元が少しずつ冷たく濡れていくのがわかる。
それなのに、伝わってくる熱は、火傷しそうなほどに熱かった。
「私を天才にしてくれたのは、あなたよ。……でも、それだけじゃない」
冬峰さんはゆっくりと顔を上げた。
涙で潤んだ大きな瞳が、薄暗い部屋の照明を受けてキラキラと輝いている。
彼女の頬は極限まで赤く染まり、その唇は微かに震えていた。
ただ一人の、恋に落ちて感情を制御できなくなってしまった、不器用な顔だった。
「あなたが……灰原くん自身が、愛おしくてたまらないの。……あなたが笑うと嬉しくて、あなたが他の女の子を見ていると狂いそうなくらい嫉妬する。……もう、自分でもどうしていいか分からないくらい、あなたのことで頭がいっぱいなの」
冬峰さんの吐息が、僕の頬を撫でる。
吐息が混ざり合うほどの至近距離。
冬峰さんは僕の両頬を冷たく滑らかな両手でそっと包み込み、逃げ道を完全に塞いだ。
彼女の瞳から溢れ出すのは、僕への好きという感情がキャパシティを超え、完全に決壊してしまった証だった。
ああ……本当に冬峰さんは愛おしい。
冬峰さんから発せられる言葉に、僕はもう後ずさることをやめた。
「私を天才にしてくれたのは、あなたよ。……だから……だからね?」
冬峰さんは僕の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で、けれど痛いくらいに真っ直ぐな言葉。
どこかで先に言わなくてはと思っていた言葉。
「私……灰原くんのことが、好き。一人の男の子として、大好きなの」
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




