第62話 全力で歌え叫べどこまでも
真っ暗になった体育館。
数百人の生徒たちがひしめく空間は、突然の停電のような事態に戸惑いとざわめきで満ちていた。
「おい、なんだよこれ」
「放送委員のミスか?」
「何も見えないぞ!」
そんな不安げな声が飛び交う中、僕は黒い布を被せて隠しておいたキーボードの前に立ち、鍵盤に指を置いた。
隣には、マイクを両手でしっかりと握りしめた冬峰さんが立っている。
暗闇の中でも、彼女の瞳が強い光を宿して僕を見つめているのがわかった。
結城さんが放送室から、僕たちの音が全校生徒の鼓膜を直接震わせる。
僕は大きく息を吸い込み、そして、静かに指を落とした。
──ジリッ。
不気味なノイズエフェクトが、大型スピーカーを通して体育館の空気を切り裂いた。
ざわめきが一瞬にして止む。
直後、不協和音スレスレな音が冷たく、そして鋭く響き渡った。
僕たちの二曲目、『Replica』のイントロだ。
「こ、これって……」
それと同時に、ステージの背後に設置された巨大なスクリーンに、一筋の光が投射された。
映し出されたのは、スケッチブックに荒々しく鉛筆で描かれたようなラフな線画のアニメーション。
結城さんの手による、完璧な映像演出だった。
「な、なんだこの映像……‼」
「待って、この曲……ネットでバズってたやつじゃないか⁉」
「嘘だろ、『Polaris Echo』⁉ なんでここに⁉」
一部の耳の早い生徒たちが、映像と音楽に気づいて声を上げた。
そのどよめきが波のように広がりかけた、まさにその瞬間だった。
冬峰さんが、息を吸い込んだ。
そして、Aメロ、テンポを落とし、言葉を一つ一つ置くように、心の奥底から絞り出すように歌う、痛切な声が響いた。
マイクを通して放たれたその歌声は、体育館の空気を一瞬にして変えた。
数百人の生徒たちが、文字通り呼吸を忘れ、その声に釘付けになる。
冬峰さんが、今、正体を隠したステージの袖の暗闇から、すべての感情を乗せて叫んでいるのだ。
透き通るような高音でありながら、魂を直接揺さぶるような深い熱量。
その圧倒的な声量と表現力に、体育館中が圧倒されていた。
リズムが徐々に加速していく。
僕の弾くキーボードのフレーズも激しさを増し、それに呼応するように冬峰さんの歌声もさらに熱を帯びていく。
才能の壁に絶望し、音楽を完全に捨てたつもりだった僕の音たち。
それが今、冬峰さんという圧倒的な熱源を得て、信じられないほどの生命力を宿す。
もう、僕には怖いものなんて何もなかった。
隣には、僕の才能を世界で一番理解してくれる冬峰さんがいるのだから。
◇◇◇
体育館の中ほど。
熱狂に包まれつつある生徒たちの群れの中で、花穂はステージ上のスクリーンを食い入るように見つめていた。
彼女の耳にも届く、激しくもどこか不器用なキーボードの旋律。
それは、ネットで話題になっているという正体不明のユニットの曲だったが、花穂にとっては、どうしようもなく聞き覚えのある音だった。
「……え?」
花穂は思わず息を呑み、両手で口元を覆った。
彼女の部屋の窓越しに、隣の家から毎日毎日聞こえてきていた、あのピアノの音。
何度も何度も弾き直され、少し不格好で、感情を持て余していて、それでもどこまでも優しかったあの旋律の癖。
それが、今、大型スピーカーから流れてくるこの曲のコード進行と、痛いほどに重なり合っていた。
「……奏多だ」
花穂の目から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
間違いない。
この泥臭くて、痛切で、どうしようもなく心を締め付ける音は、花穂がずっと一番近くで聞いてきた、大好きな音だ。
奏多が「また音楽をやり始めた」と打ち明けてくれた時、一緒にやっているネットの知り合いがいると言っていた。
その『知り合い』が誰なのか、花穂は直感で理解していた。
あの時、彼のスマートフォンに表示されていた『フユ』という名前。
そして、今、スクリーンに映し出されている『Polaris Echo』のロゴと、体育館を支配している圧倒的な歌姫の歌声。
その歌姫の正体が、あの冬峰さんだということも。
「奏多……すごいよ……本当に、すごいっ‼」
花穂は涙を拭うことも忘れ、ただステージから響いてくる音の波に身を委ねた。
奏多が再び音楽を取り戻し、こんなにも多くの人たちを熱狂させている。
自分の手の届かない、ずっと遠いところへ行ってしまったような寂しさと、それを遥かに上回る誇らしさと喜びが入り混じり、花穂は歓声の中で泣き笑いの表情を浮かべた。




