第61話 こうなれば後は思いのまま
一般公開が完全に終了し、学校に残っているのは生徒と教師だけとなった。
そして、体育館にて全校生徒が参加する『後夜祭』の幕が上がった。
屋内イベントとして、体育館には所狭しと生徒たちが密集し、凄まじい熱気と歓声が渦巻いている。
ステージ上では、軽音部の演奏やダンスパフォーマンスが次々と披露され、色とりどりの照明が会場を照らし出していた。
その華やかな表舞台の裏側。
暗く、埃っぽいステージの袖に、僕と冬峰さんは身を潜めていた。
「……機材のセッティングは、問題ないわね」
暗闇の中、冬峰さんが小声で確認してくる。
視線の先には、実行委員の仕事の合間を縫って僕たちが運び込み、黒い布を被せて隠しておいたキーボードと、ワイヤレスのマイク、そしてポータブルのアンプがある。
スピーカーへの出力ラインも、結城さんの指示通りにあらかじめ配線を済ませていた。
「ああ、いつでも大丈夫だ。……あとは、結城さんの合図を待つ」
僕のポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、結城さんからのメッセージだ。
『ダチA:放送室の掌握、完全に完了しましたわ。軽音部のパフォーマンスが終わるのが、約十五分後。その後、後夜祭のフィナーレに移るための一瞬、体育館のメイン照明がすべて落とされます。その瞬間が、我々の出番です』
『タラ:了解した。こっちの機材も問題ない』
『ダチA:では、健闘を祈ります』
スマートフォンの画面を閉じ、僕は深く息を吐き出した。
いよいよだ。
ステージからは、軽音部の激しいドラムの音と、生徒たちの地鳴りのような歓声が響いてくる。
全校生徒の前で、僕たちは正体を隠したまま、僕たちの音楽を魅せる。
演奏するのは、ネット上で爆発的な反響を巻き起こした『Replica』。
「……灰原くん。手が、冷たいわよ」
不意に、暗闇の中で僕の右手を、ひんやりとした冬峰さんの手が優しく包み込んだ。
彼女の指が、僕の指の間にゆっくりと滑り込み握りしめてくる。
「っ……冬峰さん」
「震えてる。……やっぱり、まだ怖い?」
冬峰さんの大きな瞳が、薄暗いステージ袖の僅かな光を受けて、僕を真っ直ぐに見つめ上げていた。
「……いざ本番が近づいてきたら、やっぱり少しだけ足がすくんでる」
もし、失敗したら。
もし、僕の音が冬峰さんの歌声を台無しにしてしまったら。
そんな不安が、胸の奥で渦巻いている。
「大丈夫よ」
冬峰さんは、僕と繋いだ手をゆっくりと自分の胸元へと引き寄せた。
そして、白地に赤い椿があしらわれた浴衣の奥、柔らかな膨らみの下で脈打つ、心臓の真上へとぴたりと押し当てた。
「っ……!」
「ほら、聞こえるでしょ? 私の心臓の音。……ドクン、ドクンって、すごく速く鳴ってる」
薄い布地越しに、冬峰さんの力強い命の鼓動が僕の掌に直接伝わってくる。
それは、昨夜の僕の部屋での密着と同じ、狂おしいほどに甘くて重たい愛情の証明だった。
「……うん、聞こえる。すごく速い」
「私だって、緊張してるの。初めてこんな大勢の人の前で、自分の感情を剥き出しにして歌うんだから。……でも、怖くはないわ」
冬峰さんは僕の胸元に顔を寄せ、至近距離で甘く、そして決意に満ちた声で囁いた。
「だって、私の隣にはあなたがいてくれるもの」
冬峰さんの言葉が、僕の心の奥底にあった恐怖を完全に打ち砕いていく。
彼女が僕の音を信じてくれているのなら、僕が僕自身の音を疑う理由なんてどこにもない。
「だから、灰原くん。私の声を、あなたの音で導いて。……一緒に、この体育館の空気を全部、私たちの色に染め上げてやりましょう」
「……ああ。約束する」
僕は冬峰さんの腰に左腕を回し、暗闇の中でその華奢な体を強く抱き寄せた。
冬峰さんも僕の背中に腕を回し、ギュッと強くしがみついてくる。
ステージ袖という、いつ誰に見られてもおかしくないスリル満点の場所で、僕たちは極限の緊張感と、それを遥かに上回る互いへの引力に身を委ねていた。
繋がれた手から伝わる心拍数が、次第に同じリズムへと重なり合っていくのを感じる。
やがて、ステージ上から聞こえていたバンドの演奏がジャーン! という派手な音と共に終わりを告げ、生徒たちから割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
『ありがとうございましたーっ! 以上で、軽音部のライブを終わります!』
司会の生徒の声がマイクを通して響き渡る。
『さあ、みんな! いよいよ後夜祭もクライマックスだ! この後は、お待ちかねのフィナーレに……』
司会の言葉が途切れた、その瞬間だった。
バチンッ‼
体育館のメイン照明が、一斉に音を立てて落とされた。
数百人の生徒がひしめく空間が、完全な暗闇に包まれる。
「えっ? 何事?」
「停電か?」
「うおっ、真っ暗で何も見えねえ!」
突然の暗闇に、体育館は戸惑いとざわめきに包まれた。
「……来たわね」
僕の腕の中で、冬峰さんが鋭く囁いた。
僕は彼女からそっと体を離し、黒い布を被せておいたキーボードの前に立った。
冬峰さんもマイクを手に取り、静かに息を吸い込む。
「行くよ、冬峰さん」
「ええ」
暗闇の体育館。
結城さんが放送室をジャックし、僕たちの音が全校生徒の鼓膜を直接震わせるまでのカウントダウンは、すでにゼロを指していた。
僕の指が、キーボードの鍵盤に触れる。
今、最高のエンターテインメントとして開演の時を迎えようとしていた。




