第59話 その袖掴む勇気が欲しい
お昼時になり、実行委員のシフトが入れ替わるタイミングが近づいてきた。
「奏多ーっ‼」
教室の入り口から、鼓膜を震わせるほど明るい声が響いた。
振り返ると花穂が、元気いっぱいに手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
彼女は自分のクラスの『巨大迷路』のシフトを終えてきたのか、体操服姿にクラスTシャツを羽織っている。
「花穂。そっちのシフトは終わったのか?」
「うんっ! すっごく疲れたけど、大盛況だよ! ……って、うわぁ‼ 奏多のクラスの射的、すごい並んでるね!」
花穂は目を丸くして教室の長蛇の列を見渡した後、受付に立つ冬峰さんの姿を捉えた。
その瞬間、花穂の顔から少しだけ余裕が消えた。
「冬峰さん……浴衣、着てるんだ。すっごく……綺麗」
「ああ。クラスの女子の案内係は浴衣を着るって決まりになったからな」
「……ふーん。そうなんだ」
花穂が少しだけ唇を尖らせた、その時だった。
「……日向さん。いらっしゃいませ」
冬峰さんが、絶対零度の瞳で花穂を射抜いた。
二人の間に、目に見えないバチバチとした火花が散り始めた。
「冬峰さん、こんにちは。……浴衣、似合ってるね。奏多もきっと、メロメロになっちゃったんじゃない?」
花穂が挑発的な笑みを浮かべて言うと、冬峰さんは涼しい顔のまま、フッと口角を上げた。
「ええ。朝からずっと、彼には見とれてもらっているわ。……私だけの特権だから」
「なっ……!」
花穂が言葉に詰まり、僕のジャージの袖をきゅっと強く握りしめた。
「奏多! あたしも射的やりたい! 奏多、あたしのためにあの大きなぬいぐるみ取ってよ!」
「え? いや、僕にそんな射撃スキルは……結城さんみたいにはいかないし」
「ダメよ」
僕の言葉を遮り、冬峰さんがスッと僕と花穂の間に割って入った。
「灰原くんは実行委員の仕事中よ。それに、もし彼が景品を取るなら……それは、私のために決まっているわ」
「実行委員の特権の乱用だ! 幼馴染のあたしの方が先だもん!」
「過去の時間の長さなんて関係ないわ。今の彼にとって、誰が一番必要なのか……それが大事よ」
完全に修羅場だ。
教室の中で、二人の美少女が僕を巡って火花を散らしているという信じられない光景に、周囲の男子生徒たちがどよめき始めている。
「お、おい……あいつら、灰原を取り合ってないか?」
「嘘だろ……灰原、爆発しろ!」
「勘弁して……」
胃の奥がキリキリと痛み始めた僕は、助けを求めるように結城さんを見た。
「……お二人とも、営業妨害ですわよ。日向さん、射的をされるなら列の最後尾へ。凛、私語は慎んで接客に戻りなさい」
結城さんの冷たく、そして絶対的な一言で、二人は渋々といった様子で互いから距離を取った。
「むぅ……奏多、また後で来るからね‼」
「はいはい、またな」
花穂はぷくっと頬を膨らませて列の最後尾へと向かっていった。
疲れた……頭痛薬でも飲んでおくか。
僕は安堵のため息を吐きながら、壁の時計を見上げた。
◇◇◇
午後一時。
僕と冬峰さんのシフトが終わり、他のクラスメイトと交代する時間がやってきた。
「お疲れ様でした、お二人とも。ここはわたくしたちに任せて、少し休んできてください」
結城さんが意味深なウィンクをして僕たちを送り出してくれた。
「ああ、お疲れ。結城さんもありがとう」
僕たちは教室を離れ、人混みを避けて校舎の裏手、旧校舎へと続く渡り廊下の陰へとやってきた。
文化祭の喧騒は遠くから微かに聞こえる程度で、ここには静寂が広がっていた。
「……ふぅ。さすがに少し疲れたわね」
冬峰さんは壁に寄りかかり、小さく息を吐いた。
「お疲れ様。浴衣でずっと立ちっぱなしだったからな。足、痛くないか?」
「平気よ。……でも、灰原くんが日向さんとあんな風に話しているのを見る方が、ずっと疲れるわ」
冬峰さんは拗ねたような声で言いながら、ゆっくりと僕の方へと近づいてきた。
「嫌味か?」
「嫌味よ」
知ってる。
冬峰さんは、僕のジャージの袖をきゅっと掴み、上目遣いで僕を覗き込んでくる。
「……私だけを見てって、言ったのに」
「見てたさ。今日の冬峰さんは本当に綺麗だから、つい目で追っちゃってたんだ」
僕が正直に言うと、冬峰さんは耳の先まで真っ赤に染め、僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
「バカっ……そういうこと、サラッと言うの、ズルいわ」
白地に赤い椿の浴衣越しに伝わってくる、冬峰さんの柔らかな体温と、狂おしいほどに速い心拍数。
今朝の寝起きの甘い密着がフラッシュバックし、僕の心臓も一気に跳ね上がった。
「……ねえ、灰原くん。いよいよ、今日の夜ね」
冬峰さんが、僕の胸に顔を埋めたまま、小さな、けれど決意に満ちた声で囁いた。
「ああ。後夜祭のクライマックス。……僕たちの……ライブ」
「怖い?」
「……正直怖い、昨日の夜までは」
僕が彼女の華奢な背中に腕を回して力強く答えると、冬峰さんは顔を上げ、潤んだ瞳で僕に最高の笑顔を向けてくれた。
「ふふっ。それでこそよ。程よい緊張感で行きましょう」
冬峰さんは背伸びをして、僕の耳元に唇を寄せた。
甘い吐息が、僕の鼓膜をくすぐる。
「ライブが大成功して、その時は……」
「……ああ、ちゃんと考えておくよ。でも今は……」
祭りの喧騒を遠くに聞きながら、僕たちはただ互いの体温を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。
「もうちょっとだけ……」
「好きなだけするといいよ……僕は逃げないから」




