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第57話 曖昧な今が愛おしい

 ちゅんちゅんとスズメの鳴く声で目を覚ますと、見慣れた自分の部屋の天井があった。


 床に敷いた布団からゆっくりと身を起こし、僕はすぐ横にある自分のベッドの方へと視線を向けた。


 そこには、薄手のルームウェアに身を包んだ冬峰ふゆみねさんが、規則正しい寝息を立てて眠っていた。


 昨夜、トラウマのフラッシュバックに襲われた僕を、冬峰ふゆみねさんが膝枕で優しく甘やかし、その心音で恐怖を完全に溶かしてくれた記憶が鮮明に蘇る。


 ライブへの恐怖は完全に消え去ったわけではないが、僕の心は驚くほどに澄み切っていた。


 右手に残る冬峰ふゆみねさんの体温が、僕に圧倒的な安心感を与えてくれている。


「……よく寝てるな」


 少しはだけた首元から覗く白い肌にドギマギしながら、僕は冬峰ふゆみねさんを起こさないようにそっと部屋を抜け出し、一階へと降りた。


 階段を降りる途中、キッチンの方から何やら楽しげな話し声と、食欲をそそる出汁の香りが漂ってきた。


「あら、結城ゆうきちゃん。卵焼きの返し方、すごく綺麗ねえ。普段からお料理してるの?」


「ふふっ。一人暮らしの兄に時々作ってあげていた時期がありましたので。お母様の味付けのバランスこそ、本当に勉強になりますわ」


 リビングに入ると、そこには見慣れない光景が広がっていた。


 なんと、落ち着いた色合いのエプロンを身につけた結城ゆうきさんが、僕の母親と並んでキッチンに立ち、手際よく朝食の準備をしていたのだ。


 フライパンで卵焼きを焼き上げる結城ゆうきさんの横顔は、完璧な家庭力を持つ理想的なお嫁さんのそれだった。


「……おはよう。二人で何してるの?」


 僕が目を丸くして声をかけると、結城ゆうきさんは火を止めてこちらを振り返り、優雅に微笑んだ。


「おはようございます、灰原はいばらさん。お母様が朝食の準備をされていたので、少しだけお手伝いをさせていただいていたのですわ。……昨晩は、よく眠れましたか?」


 結城ゆうきさんの瞳が、悪戯っぽくキラリと光る。


「お、おかげさまで。結城ゆうきさんも、朝早くからありがとう」


「あら奏多かなた、おはよう! 結城ゆうきちゃん、本当に手際が良くて気が利いて、すっごく助かっちゃったわ。おまけに成績も学年トップクラスなんでしょ? もう、うちの息子にはもったいないくらいのお嬢さんね!」


 母親が大絶賛しながら、出来上がった朝食をダイニングテーブルに並べていく。


 結城ゆうきさんの圧倒的なハイスペックぶりは、どうやら僕の家族の心まで完全に掌握してしまったらしい。


「お母様、褒めすぎですわ。……さて、灰原はいばらさん。りんはまだお休みのようですね。朝食も出来上がりましたし、そろそろ彼女を起こしてきていただけますか?」


「ああ、わかった。顔を洗ったら起こしてくるよ」


 洗面所で冷たい水で顔を洗い、少しだけ気を引き締めてから、僕は再び二階の自室へと戻った。


 そっと扉を開けると、ちょうど冬峰ふゆみねさんがベッドの上でもそもそと身じろぎをして、ゆっくりと重い瞼を開けたところだった。


「……んっ……」


「おはよう、冬峰ふゆみねさん。よく眠れた?」


 僕が声をかけると、冬峰ふゆみねさんは寝ぼけ眼でぼんやりと僕の方を見た。


 そして、自分が着ているネイビーのルームウェアの肩がずり落ちていることにも気づかないまま、ベッドの上でふにゃりとだらしない笑みを浮かべた。


「……灰原はいばらくん、おはよう」


 冬峰ふゆみねさんはそう言うと、なんと無防備に両手を広げ、僕の方へと突き出してきた。


「え?」


「……こっち来て。朝のぎゅーして♡」


「っ⁉」


 あまりにも直球で、甘ったるすぎるおねだり。


 冬峰ふゆみねさんが、寝起きのぽやぽやした状態で、僕にだけこんな限界デレの姿を見せてくる。


 朝から冬峰ふゆみねさんはズルい。


 僕は理性がショートしそうになるのを必死に抑えながら、ベッドに近づき、差し出された彼女の手を取った。


 その瞬間、冬峰ふゆみねさんは僕の腕をぐいっと引き寄せ、僕の首に両腕を回してギュッと抱きついてきた。


「わっ……冬峰ふゆみねさん⁉」


「んふふ……灰原はいばらくんの匂いがする。……昨日の夜、あなたのベッドで寝たら、すごく安心して……朝までぐっすり眠れちゃった」


 冬峰ふゆみねさんは僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付け、すりすりと頬を擦り寄せてくる。


 シャンプーの香りと、冬峰ふゆみねさん特有の甘い匂いが混ざり合い、僕の心臓は朝から居心地が悪い。


「だ、だからって、朝からこんなにくっつかなくても……ほら、着替えないと。一階で結城ゆうきさんと母さんが、朝ごはん作って待ってるぞ」


「……嫌。もう少しだけ、このままでいさせて。……エネルギー、チャージしてるんだから」


 冬峰ふゆみねさんは僕の抗議など一切無視して、さらに強く僕の体に密着してきた。


 その柔らかな感触と、寝起きの体温が、容赦なく僕のキャパシティを削り取っていく。


 昨夜の膝枕といい、今日の寝起きといい、冬峰ふゆみねさんの僕に対する距離感は、完全にタガが外れてしまっていた。


「……ちょっとだけだからな」


 僕はもう抵抗するのを諦め、冬峰ふゆみねさんのチャージが終わるまで、静かにその甘い重みを受け止めるしかなかった。


◇◇◇


 教室には、まだ数人のクラスメイトしか集まっていない。


 時間的にもまだまだ早いので、ただ単純に楽しみで集まった人たちだろう。


 それか……女子の着付けを見たい男子のどちらかだ。


「よし、提灯の配線は問題ないな。景品の雛壇もばっちりだ」  


 僕が教室の隅で最終チェックをしていると、教室の後ろの扉が静かに開いた。


「……お待たせ。着替え、終わったわ」


 凛とした涼やかな声に、僕と結城ゆうきさんは同時に振り返った。


 そして、僕は文字通り呼吸を忘れた。


 そこに立っていたのは、純白の生地に、鮮やかな真紅の椿の花が大胆にあしらわれた浴衣に身を包んだ冬峰ふゆみねさんだった。


 夏祭りの夜の、夜空のような群青色の浴衣とは全く違う、華やかで情熱的な印象を与える装い。


 普段の無骨な黒縁眼鏡は外されており、艶やかな黒髪は高い位置でふわりとまとめられ、冬峰ふゆみねさんの透き通るような白いうなじが惜しげもなく披露されている。


 帯には落ち着いた臙脂色が使われており、可憐さの中にも大人の色気が漂っていた。


「……どうかしら、灰原はいばらくん。夏祭りの時とは、雰囲気が違うでしょ?」


 冬峰ふゆみねさんは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、上目遣いで僕の反応を窺ってくる。


 その頬は、浴衣の椿の花と同じくらいほんのりと赤く染まっていた。


「……すごいな」


 僕は隣にいる結城ゆうきさんに声をかける。


「ええ、本当にりんはすごいですわ」


「あれも結城ゆうきさんが?」


「いえ……今回はりん自身で選んだ着物ですわ」


「そうか……」


 結城ゆうきさんチョイスではないのか……いや、しかし。


「本当に、見とれてしまうくらい綺麗だ」


 僕は自分の語彙力のなさを呪いながらも、ただ正直な感想を口にするしかなかった。


 これほどの美少女が、僕に色んな自分を見てほしいという理由だけで、わざわざ新しい浴衣を用意してくれたのだ。


「ふふっ。……灰原はいばらくんにそう言ってもらいたくて、選んだんだから。似合っているなら嬉しいわ」


 冬峰ふゆみねさんは嬉しそうに微笑み、僕のすぐ隣まで歩み寄ってきた。


 すれ違いざまに、ふわりと甘いシャンプーの香りと、ほんの少しのフローラルな香りが漂う。


「お二人とも。朝から見せつけてくれますわね」


 結城ゆうきさんがわざとらしくため息を吐くが、その口元は楽しそうに綻んでいた。


 そうこうしている間に、他のクラスメイトも続々と衣装に着替えて、教室へと入ってくる。


「さて、まもなく開門の時間です。灰原はいばらさん、りん。実行委員として、クラスの()()を盛り上げましょう」


「ああ、わかってる。……行こうか、冬峰ふゆみねさん」


「ええ」


 僕たちが視線を交わし合った直後、校内放送で文化祭の開幕を告げるファンファーレが鳴り響いた。

カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。

先が気になった方はそちらもご覧ください。

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