第56話 ゼロセンチの指先で
「ダメっ! ダメよ、灰原くん」
「………冬峰さん、明日は早いよ」
「嘘をつかないで」
冬峰さんの冷たく、けれど強い響きを持った声が、僕の言葉を切り裂いた。
彼女は僕の前にひざまずくと、僕の震えがまだ止まっていない両手を、自分の両手でがっちりと掴み込んだ。
「……冬峰、さん……」
「あなたの音が、泣いているもの。私にはわかるわ」
冬峰さんの瞳には、逃げ隠れを一切許さないという強固な意志が宿っていた。
普段は他者を拒絶する冬峰さんが、今、僕の心の奥底にある一番触れられたくない暗闇に、強引に、けれどどこまでも真っ直ぐに踏み込もうとしてきている。
「私を誤魔化せると思わないで。……何が不安なの? どうして震えているの? 全部、私に、私に教えて」
「……」
冬峰さんの圧倒的な熱量と、僕の両手を握りしめるひんやりとした指先の感触。
僕はうつむき、力なく絞り出すように口を開いた。
「……君に嘘はつけない……か」
「聞かせて、灰原くん」
「……正直、怖い」
一度吐き出した本音は、もう止めることができなかった。
「大勢の前で自分の曲を弾くのが……怖い。もし僕の曲のせいで、君まで笑われたら……君の完璧な歌声を、僕の凡庸な音が汚してしまったらって考えたら……手が、震えてっ」
情けない弱音だった。
僕が自分の気持ちを吐き出すと、冬峰さんは小さく息を呑んだ。
そして、彼女は床に座り込む僕の前にひざまずき、そっと僕の手首を掴んだ。
「……こっちに来て」
冬峰さんは僕をゆっくりと立ち上がらせると、部屋の隅にあるソファへと僕を座らせた。
そして、彼女自身も僕のすぐ隣に座り。
――あろうことか、僕の頭をそっと引き寄せ、自分の膝の上に乗せたのだ。
「えっ……冬峰、さん……?」
「いいから。……目を閉じて、少し休んで」
予想外の行動に僕が混乱していると、冬峰さんのひんやりとした滑らかな指先が、僕の前髪を梳くように優しく撫で始めた。
ルームウェア越しに伝わる太ももの柔らかな感触。
至近距離からふわりと漂う、洗い立ての甘いシャンプーの香りと優しい体温。
「灰原くん、頑張ったんだね」
冬峰さんからの、あまりにも甘くて無防備な『膝枕』だった。
「そうだよ……僕だって……色々頑張ったんだ」
「そうね、灰原くんは頑張ってる」
僕の髪を撫でる冬峰さんの指先は、ひどく優しく、そして愛情に満ちていた。
頭上から降ってくる冬峰さんの甘い声が、僕のパニックを起こしかけていた脳を少しずつクールダウンさせていく。
「私がここにいるのは、灰原くんのおかげ。私に、魂の居場所をくれたのはあなたの音。あなたがいなければ、私は今でもずっと、一人で迷子のまま」
「でも……僕の音は……」
「有象無象の評価なんて、どうでもいい」
冬峰さんは僕の言葉を遮り、少しだけ強い口調で言った。
しかし、すぐにまた優しい手つきで僕の頬をそっと撫でる。
「あなたは天才よ。私が保証する。……明日は、誰もあなたの音を笑ったりしない。もし笑うやつがいたら、私がそいつらの鼓膜を全部、私の歌声で震わせて黙らせてやるわ」
その言葉には、一切の迷いも嘘もなかった。
冬峰さんの不器用で真っ直ぐな愛情が、僕の心の奥底にこびりついていた恐怖の塊を、ゆっくりと、けれど確実に溶かしていくのを感じた。
「だから、灰原くん。明日は何も心配しないで、私の隣で、私のために音を鳴らして。……あなたが私の声を見つけてくれたように、明日は私たちの番よ」
「……冬峰さん」
「……少しは、落ち着いた?」
上目遣いではなく、上から僕を見下ろす形になる冬峰さんの瞳は、間接照明のわずかな光を受けて潤んでいた。
僕は冬峰さんの温もりに包まれながら、ゆっくりと頷いた。
「うん。……ごめん、情けないところを見せた」
「謝らないで。あなたが不安になるのは当然よ。……それに、こうしてあなたに甘えてもらえるの、私、すごく嬉しいの」
冬峰さんはふふっと柔らかく微笑み、僕の頭を撫でていた左手を、そっと僕の右手に絡ませてきた。
そして、その手を自分の胸元。
――柔らかな膨らみの奥で脈打つ、心臓の真上へとゆっくりと押し当てた。
「っ……⁉」
「……私の音、聞こえる?」
ルームウェアの薄い布地越しに、ドクン、ドクンと激しく脈打つ命の音が伝わってくる。
星空の下で冬峰さんが僕にさせたことと同じ、狂おしいほどに甘くて重たい愛情の証明。
僕の不安を完全に打ち消すかのように、冬峰さんの心臓は力強く、そして恐ろしいほどの速さで鳴り響いていた。
「……うん、聞こえるよ。すごく、速い」
「明日、私の全部をあなたの曲に乗せてあげる。だから、明日は絶対に下を向かないで。……私の歌う姿だけを見ていて」
耳元で甘く囁かれ、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
先ほどまでの恐怖はどこへやら、今度は別の意味で心臓が爆発しそうになっている。
密室で、僕を限界まで甘やかし、そしてドロドロに溶かしていく。
「……わかった。絶対に、君から目を離さない」
「ええ、約束よ」
冬峰さんは満足そうに微笑むと、僕の顔にさらに身を屈め、吐息が混ざり合うほどの至近距離で囁いた。
「そして、明日の後夜祭の後は……私に、最高のご褒美をちょうだいね。覚悟しておいて。私、絶対に妥協しないから」
悪魔のように甘い宣告。
「それは……考えておく」
「ふふっ、楽しみにしてる。おやすみ、灰原くん」
「うん、お休み。冬峰さん」
こうして、文化祭前日の、静かで濃密な夜は更けていった。
僕は冬峰さんの柔らかな膝の感触と、掌から伝わる命の音に身を委ねながら、静かに目を閉じた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




