第55話 夜に逃げただけ
時計の針が午後十一時を回った頃。
「さて、わたくしは先にお風呂を借りて、一階の客間で休ませていただきますわ。明日は朝が早いですからね」
結城さんが立ち上がり、自分のボストンバッグから着替えを取り出した。
「お二人は、明日に備えてゆっくりと休んでくださいね。……あまり夜更かしをして、本番に響かないように」
「わ、分かってるよ。僕たちもそろそろ寝るから」
「ふふっ、どうでしょうか。では、おやすみなさいませ」
結城さんは悪戯っぽくウィンクをして、部屋を出て行った。
しばらくして、一階から結城さんがお風呂から上がり、そのまま客間へと移動した気配が伝わってきた。
防音パネルに囲まれた僕の部屋には、僕と冬峰さんの二人だけが残されている。
「栞、もう上がって客間に行ったみたいね。じゃあ、次は私が入ってくるわ」
冬峰さんが自分のボストンバッグから、結城さんに借りたらしい着替えやタオルが入ったポーチを取り出しながら言った。
「ああ。バスタオルは洗面所の棚に新しいのがあるから使ってくれ」
「ありがとう」
冬峰さんはポーチを手に取り、部屋の扉に手をかけた。
しかし、そこでふと足を止め、ゆっくりと僕の方へと振り返った。
その顔は、悪魔のように甘くて色っぽい笑みが浮かんでいる。
「……ねえ、灰原くん」
「ん?」
「栞はもう客間で寝る準備をしているし、ご両親ももう寝室よね。……今、一階の洗面所には誰もいないわ」
「そうだな。だから何だよ」
嫌な予感がして僕がキャスター付きの椅子を少しだけ後ろに下げると、冬峰さんは一歩だけ僕の方へと近づき、小首を傾げて上目遣いで僕を覗き込んできた。
「……一緒に入る?」
「なっ……⁉」
あまりにも直接的で破壊力のある誘い文句に、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
学年一の美少女が、僕の家で、一緒にお風呂に入ろうと誘ってきているのだ。
二人きりだからといって、その距離感のバグり方は明らかに一線を越えている。
僕の心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に抑え込み、僕は全力で首を横に振った。
「ばっ、入るわけないだろ! いいから早く行ってこい!」
「あら、残念。せっかくお互いの背中くらい流してあげようと思ったのに」
「君は本当にスリルを求めすぎだ! 早く行け!」
「ふふっ」
僕が真っ赤になって追い払うと、冬峰さんは満足そうにくすくす笑いながら、今度こそ部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
「ズルすぎるだろ……」
何かやりきれない気持ちを抱えながら、僕は空に向かってつぶやいた。
先ほどまでの甘くて危険な空気が霧散し、部屋のメイン照明を少しだけ落とす。
小さな間接照明だけがぼんやりと部屋を照らす状態になると、完全な静寂が訪れた。
しかし、部屋が暗くなり、静寂が訪れた瞬間。
――僕の心の中に、昼間は忙しさで麻痺していた『何か』が、黒い泥のように湧き上がってきた。
明日、僕は全校生徒の前で、自分の曲を演奏する。
顔の見えないネットの海で、『心がない』『凡作だ』と嘲笑われたあの日。
あのトラウマが、不意に鮮明なフラッシュバックとなって脳裏に蘇ったのだ。
もし、誰も聴いてくれなかったら。
もし、僕の演奏が失敗して、冬峰さんの圧倒的な歌声まで台無しにしてしまったら。
ネットの誹謗中傷よりももっと恐ろしい、現実の冷ややかな視線と嘲笑が僕に向けられるのではないか。
考えれば考えるほど、胃の奥が冷たく重くなり、心臓が不規則なリズムで早鐘を打ち始めた。
「……はぁっ……っ」
息が苦しい。
僕は床の布団の上に座り込んだまま、震える両手で自分の頭を抱え込んだ。
逃げ出したい。
今すぐ、すべての機材を捨てて、冬峰さんと逃げ出したい。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ガチャリ、と扉が開く音がして、ふわりと甘いシャンプーの香りと、お風呂上がりの温かい湿気を帯びた空気が部屋に入ってきた。
「……灰原くん?」
お風呂から上がってきた冬峰さんが、僕の異変に気づいて声をかけてきた。
僕は返事をする余裕すらなく、ただ浅い呼吸を繰り返して震えていた。
衣擦れの音がして、冬峰さんが僕のすぐ目の前まで歩み寄ってくる気配がした。
「冬峰……さん」
「灰原くん……震えてるの? どうしたの、どこか痛いの?」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
うわべだけの平常心で僕は冬峰さんに向き合った。
その表情は何かに憑りつかれた様な不思議な表情をしていた。
「灰原くん……」
「シャワー……浴びてくる。ホント、何もないから」
冬峰さんと入れ替わるようにして僕は立ち上がった。
今すぐこの場から逃げたかった。
冬峰さんに……僕の一番大事な人に、今の顔を見られたくなかった。
でも、心のどこかで冬峰さんに助けてって言いたい。
自分の気持ちに気づいてほしい。




