第53話 行先なんて今は知らなくていい
それからの日々は、まさに目が回るような忙しさだった。
放課後は文化祭実行委員として、クラスの『射的』の準備に追われる。
射的の銃や的、教室の装飾に使う提灯や模造紙の買い出し、予算のやり繰り。
予想はしていたが、林間学校の比ではないレベルで忙しい。
「灰原くん。射的の景品を並べる雛壇、この木材を組み合わせて作れば安上がりになると思わない?」
「ああ、それ良いね。強度もこれなら十分だし、ペンキで色を塗れば見栄えもする」
休日のホームセンター。
僕と冬峰さんは、資材コーナーで大きなカートを引きながら、真剣に議論を交わしていた。
学校の生徒たちから見れば、単なる真面目な実行委員の姿にしか見えないだろう。
しかし、カートの持ち手を握る僕の手のすぐ横には、わざと触れ合うような距離に冬峰さんの手がある。
「……ねえ。こうして二人で買い出ししていると、なんだかデートみたいね」
誰もいない通路の奥で、冬峰さんがこっそりと僕の耳元で囁く。
二人きりになった瞬間に隙あらば甘えてこようとする彼女の姿勢は、本当に心臓に悪い。
「バカ、誰かが見てるかもしれないだろ。実行委員の仕事中なんだから真面目に……」
「私はいつでも真面目よ」
どうだか……今回も結城さんに思いっきり手伝ってもらっているくせに。
「そういえば、案内係の浴衣。私、夏祭りの時とは違うのを着ようと思ってるの」
「えっ、違うやつ?」
「ええ。あなたに、色んな私を見てほしいもの。……楽しみにしててね」
甘く囁かれ、僕の顔が再び熱くなった、その時だった。
「あ、奏多ーっ‼」
不意に、背後から鼓膜を震わせるほど明るい声が響いた。
振り返ると、花穂が、走って駆け寄ってくるのが見えた。
彼女の隣には数人の女子生徒がおり、どうやら他クラスの買い出しで来ているらしい。
「花穂? お前も買い出しか」
「うんっ‼ うちのクラスは『巨大迷路』をやることになったの! だから大量の段ボールをもらいに来たんだー! ……って、なんでまた奏多と冬峰さんが一緒にいるの?」
花穂は僕と冬峰さんの距離の近さに気づいたのか、ぷくっと頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「だから、実行委員の買い出しだって言ってるだろ。うちのクラスは『射的』をやるから、そのセットとか木材を探してて」
「むぅ……最近、奏多が冬峰さんとばっかり一緒にいて、あたし面白くない!」
花穂が僕の右腕に強引に腕を絡ませ、太陽のような明るい笑顔が向けられる。
「どうしてそうなる……」
しかし、その瞬間、僕の左側から凄まじい冷気が漂ってきた。
「……日向さん」
冬峰さんが、絶対零度の瞳で花穂を射抜いている。
「灰原くんは今、私と一緒にクラスの重要な仕事をこなしているところよ。……邪魔をしないでちょうだい」
「邪魔じゃないもん! 幼馴染の特権だもん!」
二人の間にバチバチと見えない火花が散り、ホームセンターの通路が戦場と化した。
僕は胃の奥がキリキリと痛み始めるのを感じながら、必死に花穂を宥め、逃げるようにその場を後にするしかなかった。
◇◇◇
そして、夜。
クラスの射的の準備を終え、たくさんの資材を部屋に運び込んだ後は、僕の部屋でのライブ準備が待っている。
防音パネルに囲まれた密室で、僕たちは来るべきゲリラライブに向けたリハーサルを繰り返していた。
パソコンから流れるオケに合わせて、僕がキーボードを弾き、冬峰さんがマイクに向かって声を張り上げる。
「……少し、キーボードの音量が大きいかしら。私の声とぶつかりすぎてる気がするわ」
歌い終えた冬峰さんが、ヘッドホンを外して首を傾げた。
「そうか? でも、『Replica』をライブでやるなら、これくらいぶつかり合っていた方がライブ感が出ると思うんだ」
「うーん……じゃあ、もう一回合わせてみましょう」
「わかった」
妥協を許さない冬峰さんの姿勢に引っ張られ、僕も限界まで音を磨き上げていく。
一時間ほどぶっ通しで練習を続け、やがて僕が小さく息を吐いてキーボードから手を離した。
「……よし、今日のところはこれくらいにして、休憩にしよう」
「ええ、そうね」
僕がキャスター付きの椅子に深く背中を預けて目を閉じていると、背後からふわりと甘い香りが漂ってきた。
直後、僕の首に柔らかな腕が回され、背中に温かい重みが乗せられる。
「ちょっ……冬峰さん⁉」
「……お疲れ様、灰原くん。キーボードを弾くあなたの背中、すごくかっこよかったわ」
冬峰さんが僕の背後から抱きつき、耳元で甘く囁いてきた。
彼女の吐息が首筋にかかり、僕は思わず身を固くする。
「休憩だからって、こんなにくっつかなくても……」
「いいじゃない。部屋で二人きりなんだから、誰にも見られないわ。……それに、こうしていると、あなたの熱が直接伝わってきて、安心するの」
実行委員としての事務作業と、ライブに向けた音楽制作。
その二つのプレッシャーを抱えながらも、冬峰さんは僕の部屋でだけは、こうして完全に緊張の糸を解き、ドロドロに甘えてくるのだ。
「ねえ、灰原くん」
冬峰さんが、抱きついたまま小さな声で言った。
「文化祭のライブ……絶対に成功させましょうね」
「ああ。君の歌声があれば、絶対に全校生徒を圧倒できるさ」
「ふふっ。それでね、もしライブが大成功して、みんなが私たちの音楽に熱狂したら……」
冬峰さんは僕の耳たぶに微かに唇を触れさせ、悪魔のように甘い声で囁いた。
「私に、ご褒美……くれるかしら?」
その言葉の破壊力に、僕の心臓は口から飛び出しそうなほど激しく鳴り響いた。
ご褒美。
それは間違いなく、ただの言葉以上の、決定的な何かを意味している。
「ズルいね。それは、ライブが終わってから考えるよ」
僕が照れ隠しで誤魔化そうとすると、冬峰さんは満足そうにくすくすと笑い、さらに強く僕の背中を抱きしめた。




