第49話 溶け残る心そのままで
八月半ば。
お盆の時期を迎え、外は連日のように命の危険を感じるほどの猛暑が続いていた。
アスファルトからは陽炎が立ち上り、やかましいほどの蝉時雨が容赦なく鼓膜を叩いてくる。
そんな酷暑から完全に隔離された僕の部屋は、クーラーが快適な温度で稼働しており、まるで別世界のようだった。
「……んっ」
僕の右肩に、柔らかな重みがもたれかかってくる。
隣に座る冬峰さんが、キャスター付きの椅子を僕の方へと極限まで寄せ、僕の腕に自分の両腕を絡ませてすり寄ってきたのだ。
「ちょっ……冬峰さん、暑いって」
「クーラー効いてるから平気よ。それに、私、冷え性だもの」
「そういう問題じゃない」
嘘つけ……絶対冷え性じゃない。
冬峰さんは僕の抗議など全く意に介さず、僕の肩に顔を埋めてぐりぐりと頭を押し付けてきた。
夏休みに入ってからというもの、彼女はほぼ毎日のように僕の家に入り浸り、音楽の制作を口実にしては、こうして四六時中ベタ甘に甘えてくるようになっている。
海での出来事を境に、冬峰さんの僕に対する独占欲と甘え方は、明らかにタガが外れてしまっていた。
「……ねえ、灰原くん。構って」
上目遣いで覗き込んでくる冬峰さんの瞳は、潤んでいて、甘い期待に満ちている。
「構ってって言われてもな……僕たち、今すごく現実的な問題に直面してるだろ」
僕がため息をつきながら視線を向けた先には、パソコンのモニターではなく、机の上に山積みになった学校の指定問題集やプリントの束があった。
そう、夏休みの宿題である。
お盆を過ぎれば、夏休みはあっという間に後半戦へと突入する。
二曲目の大反響に浮かれ、新曲の構想やアレンジ作業、果ては夏祭りに海とありとあらゆることに熱中しすぎた結果、僕たちは学生としての本分を完全に後回しにしてしまっていたのだ。
「現実的な問題なんて、大げさね。……私は、文系科目はもう全部終わらせたわよ」
「理系科目が真っ白じゃないか。中間テストの時は十三位なんていう奇跡を起こしたけど、あれは結城さんのスパルタ指導があったからだろ。このままだと、次の期末テストで痛い目を見るぞ」
「うっ……」
図星を突かれたのか、冬峰さんは少しだけ口を尖らせて視線を逸らした。
彼女は文系科目は学年トップクラスだが、理系科目に関してはムラが激しい。
「だから、今日は活動は一旦お休みして、宿題に専念する日だって約束しただろ」
「そうだけどぉ……シャーペンを持っても、あなたの顔ばっかり思い浮かんじゃって、全然集中できないんだもの。……ねえ、灰原くんが私の代わりに数学のプリント、やってくれないかしら?」
「絶対にダメだ。君の身にならないだろ」
「じゃあ……私が一問解くごとに、ご褒美をちょうだい」
冬峰さんは僕の腕に絡ませた手をさらにきゅっと締め、甘く囁いてきた。
「ご褒美って、何を……」
「それは……灰原くんが考えて? キスでもなんでもいいわよ」
耳元で悪魔のように囁かれ、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
今でも思いだす、吐息が混ざり合うほどの距離。
もしあのまま何も邪魔が入らなければ、僕たちは確実に唇を重ねていたはずだ。
「っ……! ナシナシ‼」
「あら、残念」
「第一、一問ごととか、あと何問あると思って言っているんだ‼」
「そうね。あと二十問ほど?」
「多いわ! そういうのは、宿題が全部終わってからだ!」
「あら、全部終わったら、キスしてくれるの?」
「し、しない! というか、今はダメだ! 集中しろ!」
「今は……ね?」
「揚げ足を取るな!」
僕が慌てて身を引き剥がそうとした、その時だった。
ピンポーン。
一階から、玄関のチャイムが鳴り響いた。
僕はホッと胸を撫で下ろした。
このまま防音室に二人きりでいれば、間違いなく冬峰さんの甘い引力に飲み込まれ、宿題どころではなくなってしまっていただろう。
「はーい! お兄ちゃん、お客さんだよー!」
「今、行く」
立ち上がろうとした僕の裾をちょんと冬峰さんがつまむ。
「灰原くん、私も行くわ」
「いや、別に僕一人でいいけど……」
「どうやら、私にもお客さんらしいのよ」
冬峰さんはそう言うと、スマートフォンの通知画面を見せてきた。
僕はその画面に書かれたメッセージを見て苦笑するしかなかった。
◇◇◇
一階にいた妹が玄関の扉を開ける音が聞こえ、僕は冬峰さんを引き連れて階段を降りた。
玄関に立っていたのは、見慣れた顔が二つ。
一人は、涼しげなノースリーブのブラウスを着た、結城さん。
そしてもう一人は、半泣きでプリントの束を抱え込んだ、幼馴染の花穂だった。
「奏多ぁぁぁっ! 助けてぇぇぇっ‼」
花穂は僕の姿を見るなり、縋り付くようにして僕の右腕に抱きついてきた。
「ちょっ、花穂! 暑いからくっつくな!」
「だってぇ! 数学も英語も全然終わってないのぉ! このままじゃ、あたしの夏休みが課題の山に埋もれて死んじゃう!」
花穂が持ち前の柑橘系の香りを漂わせながら、僕にぎゅっとしがみついて離れない。
花穂は勉強に関してはすこぶる苦手だ。
おそらく、お盆になるまで一切手をつけていなかったのだろう。
「……日向さん」
不意に、僕の左側から、シベリアの永久凍土のような恐ろしい冷気が漂ってきた。
振り返ると、冬峰さんが絶対零度の瞳で、僕の腕に抱きつく花穂を射抜いていた。
先ほど防音室でドロドロに甘えていた姿とは打って変わり、完全な『氷の令嬢』の怒りモードだ。
「灰原くんは今、私の理系科目の面倒を見るので手一杯よ。……彼に迷惑をかけないで」
「えー? 奏多は昔から、夏休みになると最後はいつもあたしの宿題手伝ってくれてたもん‼」
花穂は冬峰さんの冷たい視線を真正面から受け止めながらも、一歩も引こうとしない。
むしろ、僕の腕を抱きしめる力をさらに強め、幼馴染の特権をこれ見よがしに主張してきた。
一緒に行った夏祭り以来、花穂も冬峰さんに対して妙な対抗心を燃やしているフシがある。
「過去は過去よ。……それに、わからないなら私が教えてあげるわ。文系科目なら、私でも完璧に教えられるもの」
冬峰さんは表面上は優雅に微笑んでいるが、その目は全く笑っていない。
バチバチと、目に見えない火花が玄関先で激しく散り始めた。
またこのパターンか。
僕は胃の奥がキリキリと痛み始めるのを感じながら、助けを求めるように結城さんを見た。
「……はぁ。お二人とも、玄関先で見苦しいですよ」
結城さんはわざとらしく大きなため息を吐いた。
「わたくしは、作業の合間の息抜きとして、凛の宿題の進捗を確認しに来ただけなのですが。……どうやら、そういう訳にはいかなさそうですね」
その冷ややかな言葉に、冬峰さんと花穂がビクッと肩を揺らした。
「リビングへ移動しましょう。今日中に、終わらせるべきノルマは確実に終わらせていただきますわよ」
「「はい……」」
学年三位の圧倒的なプレッシャーを前に、二人はすごすごと僕の腕から離れ、リビングへと向かうしかなかった。
結城さん……本当に、あなたには頭が上がらないよ。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




