第48話 大暴走獰猛な鼓動を
日が傾き始め、海風が少しだけ涼しくなってきた夕暮れ時。
海の家の客もまばらになり、波音だけが静かに響いていた。
「少し、辺りを散歩してきますわ」
結城さんが気を利かせて席を外し、僕と冬峰さんはサマーベッドに座ったまま、オレンジ色に染まる海を眺めていた。
「……綺麗ね」
冬峰さんがポツリと呟く。
夕日に照らされた彼女の横顔は、言葉を失うほどに美しかった。
「ああ」
「今日、海に来てよかったわ。ずっと部屋にこもって音楽を作るのも好きだけど、たまにはこうやって、あなたと一緒に外の景色を見るのも悪くないわね」
「僕も、君の水着姿が見られて……来てよかったと思ってる」
僕が正直に言うと、冬峰さんはほんのりと頬を赤く染め、僕の方へと顔を向けた。
「……灰原くんはズルい。そういう言葉をサラッと言う」
「ズルいのはどっちだよ。海でくっついたとき、僕がどれだけドキドキしたか」
「それは、それ」
「これはこれってか?」
「そうよ」
そんな言い訳が通じるわけがない。
「……ねえ、灰原くん」
話題を変えるべく、冬峰さんの声が甘く、そして切実な色を帯びた。
「あの時のこと、覚えてる?」
「どの時のことだよ」
「夏祭りの時よ……雨宿りしていた時の……覚えてる?」
その言葉に、僕の心臓が大きく跳ね上がった。
正直、忘れる方が難しい。
「覚えてる……」
正直、冬峰さんとの出来事を忘れるというほうが難しい。
「雷のせいで、最後までできなかったじゃない?」
「最後って……」
冬峰さんはそう言うと、そっと僕の手に自分の手を重ねてきた。
「私、あなたにキス出来なかったこと、ずっと引きずってるの。……あなたが私を導いてくれたように、私もあなたにとっての特別な存在になりたい」
「そう……」
「ねえ……キス……しよ?」
夕暮れの静寂の中、冬峰さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
周囲には誰もいない。
波の音だけが、二人の鼓動をかき消すように響いている。
「……今度こそ、逃げないでね」
冬峰さんの長い睫毛が震え、潤んだ瞳が僕のすべてを求めている。
僕だって、逃げたくない、逃げるわけない。
でも、心のどこかで今は逃げるべきだと思う自分もいる。
僕はごくりと息を呑み、何も言わずに冬峰さんのすべてを受け入れようと目を閉じた。
その時だった。
「お二人とも‼ そろそろ電車の時間ですわ!」
背後から、結城さんの明るい声が響き渡った。
「ひゃああっ⁉」
「うぉっ⁉」
僕たちは弾かれたように飛び退き、慌てて距離を取った。
振り返ると、結城さんが悪びれる様子もなく、荷物をまとめて立っていた。
「……結城さん、絶対わざとやっただろ」
「さあ、何のことでしょう? わたくしはただ、帰る時間を知らせただけですわ」
結城さんはクスクスと笑いながら、駅の方へと歩き出した。
「図ったな……はぁ……帰ろうか、冬峰さん」
「……帰ったら、覚えてなさい」
顔を真っ赤にしていた冬峰さんは僕を睨みつけ小声で捨て台詞を吐き、差し出した手を掴んだ。
◇◇◇
帰りの電車の中。
ガタン、ゴトンと規則正しいレールを刻む音が、冷房の効いた車内に響いている。
「灰原さん、ちょっとこのパートで聞きたいことが」
「……しーっ、冬峰さん、寝てる」
「あら。失礼しましたわ」
海で遊び疲れたのか、冬峰さんは僕の肩にこてんと頭を乗せて、静かな寝息を立てていた。
少しだけ開いた彼女の桜色の唇から、規則的な呼吸が漏れる。
冬峰さんの髪から微かに香る潮の匂いとシャンプーの香りが混ざり合い、僕の心をひどく落ち着かせてくれた。
「僕は起きてるから、結城さんも寝てていいよ」
「では、わたくしも少し。最寄り駅になったら起こしてくださいませ」
「分かった」
向かいの席では、結城さんがノートパソコンを閉じ、腕を組んで静かに目を閉じた。
僕は窓ガラスに映る、自分と冬峰さんの姿をぼんやりと見つめた。
今日、海で見せてくれた純白のビキニ姿も、周囲の視線に対する強烈な独占欲も、かき氷での悪戯っぽい間接キスも。
そのすべてが、彼女が僕に向けてくれている、不器用な愛情の形だった。
「灰原くん……」
多分、僕は冬峰 凛のことが好きなのだろう。
そして、冬峰さんも僕のことが……
けれど、僕がその気持ちに向かうためには、彼女のその重たくて甘い感情のすべてを、真正面から受け止められる人間にならなきゃいけない。
相棒としてだけでなく、一人の男として、冬峰さんの隣に堂々と立ちたい。
「色々……頑張らなきゃな」
窓の外には、すっかり暗くなった夜の街の明かりが、流れる星のように過ぎ去っていく。
僕は眠る冬峰さんを起こさないように、そっと彼女の冷たい左手に、自分の右手を重ねた。
微かに冬峰さんの指が動き、僕の指を握り返してくるような気がした。
「……好き」
寝言のように言う冬峰さんのその言葉は僕には電車の音で聞こえなかった。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




