第45話 夏の魔物に連れ去られ僕のもとへ
夜の八時を回った頃。
いよいよ花火の打ち上げ時間が近づき、僕と冬峰さんは人混みを避けて、神社の裏手にある静かな高台へと移動していた。
ここなら、遮るものなく花火を見上げることができる。
木々の間にひっそりと佇むその場所には、僕たち以外の誰もいなかった。
「……ここなら、よく見えそうね」
冬峰さんが夜空を見上げて呟いた。
しかし、その直後だった。
ぽつり。
僕の頬に、何か冷たいものが落ちてきた。
空を見上げると、いつの間にか星は見えなくなり、黒く重たい雲が空を覆い尽くしている。
「え……雨?」
冬峰さんが不思議そうに呟いた次の瞬間。
ザアァァァァッ‼
まるでバケツをひっくり返したような、猛烈なゲリラ豪雨が突然僕たちを襲った。
「うわっ⁉ こっちだ、冬峰さん!」
「きゃあっ‼」
僕は繋いでいた手を強く引き、高台の奥にある古びた東屋へと全力で駆け込んだ。
間一髪で屋根の下に逃げ込んだものの、ほんの十数秒の間に、僕たちの服はすっかり雨に濡れてしまっていた。
土の匂いと、アスファルトを激しく叩きつける雨音が、周囲のすべてを包み込んでいる。
『ピンポンパンポーン。本日の花火大会は、急な荒天のため、安全を考慮し中止とさせていただきます。ご来場の皆様は……』
無情にも、遠くのスピーカーから町内放送のアナウンスが響き渡った。
「……中止になっちゃった。せっかくの浴衣が……」
冬峰さんは残念そうに肩を落とし、濡れてしまった浴衣の袖を軽く払った。
深い群青色の浴衣が雨に濡れて彼女の肌に張り付き、ただでさえ色っぽい冬峰さんの姿が、より一層艶めかしいものになっている。
透き通るような白い首筋や、うなじのラインが雨に濡れて妖しく光っており、僕は慌てて視線を逸らした。
その時だった。
僕のズボンのポケットの中で、スマートフォンが激しく振動を始めた。
着信を知らせる画面を見ると、そこには『花穂』の二文字が表示されていた。
「あ……ごめん、ちょっと電話に出るよ」
僕が断りを入れると、冬峰さんの周囲の空気が、一瞬にして絶対零度まで急降下したのがわかった。
彼女の鋭い視線が、僕の手の中のスマートフォンを射抜いている。
僕はその無言のプレッシャーに冷や汗を流しながら、通話ボタンをタップして耳に当てた。
「もしもし、花穂か?」
『奏多‼ 大丈夫⁉ すっごい雨降ってきたけど、濡れてない⁉』
電話の向こうからは、激しい雨音と周囲の人たちの喧騒、そして花穂の焦ったような声が聞こえてきた。
「ああ、こっちはなんとか東屋に逃げ込んだから濡れてないよ。そっちは? 結城さんと一緒だろ?」
『うんっ! あたしと結城さんはね、射的の屋台のおじさんがテントの中に入れてくれて、今はそこで雨宿りさせてもらってるの。結城さんも無事だから安心して!』
「そうか、よかった。結城さんによろしく言っておいてくれ」
『わかった! ……あ、あのさ、奏多』
花穂の声が、少しだけトーンダウンした。
『そっちは……冬峰さんと一緒、だよね?』
その質問に、僕は思わず息を呑んだ。
嘘をつく必要はないが、事実を伝えることに妙な罪悪感を覚えてしまう。
僕が音楽を再開したことをあれほど喜んでくれた彼女に、僕が今、冬峰さんと二人きりで雨宿りをしていると言えば、どう思うだろうか。
「……ああ。一緒に行動してたから、今も同じ場所で雨宿りしてるよ」
僕がそう答えた瞬間だった。
隣に立っていた冬峰さんが、音もなく僕にすり寄り、僕の左腕に自分の両腕を絡ませてギュッと抱きついてきたのだ。
「なっ……⁉」
驚いて声を出しかけた僕の耳元に、冬峰さんの冷たい唇が限界まで近づく。
「……灰原くん。私、濡れちゃって……すごく寒いわ」
意図的に甘く、色っぽさを強調した冬峰さんの声が、スマートフォンのマイクにも届くほどの音量で囁かれた。
『えっ? 今、冬峰さんの声……? なんか、すごく近くない……?』
電話の向こうで花穂が明らかに動揺している。
「い、いや! 雨の音だよ! 気のせいだ!」
僕は必死に裏返った声で誤魔化そうとしたが、冬峰さんの悪戯は止まらなかった。
冬峰さんはさらに僕の腕に強くしがみつき、濡れた自分の頬を僕の肩にすりすりと擦り付けてくる。
制服ではなく、濡れて張り付いた浴衣越しに伝わってくる冬峰さんの柔らかな感触は、僕の理性を容赦なく破壊しにきていた。
「……早く電話切って。私だけを見て」
吐息交じりに囁かれたその言葉は、冬峰さんの、むき出しの独占欲と嫉妬心の塊だった。
幼馴染との通話を邪魔して、自分が今、僕の隣にいるという事実を強烈にアピールしているのだ。
これ以上通話を長引かせれば、冬峰さんはもっと過激な行動に出かねない。
「と、とにかく! 雨が弱まるまで待機して、動けそうになったら連絡する! じゃあな!」
『あ、ちょっと奏多……!』
僕は半ば強引に通話を切り、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。
通話が切れたことを確認すると、冬峰さんは僕の腕に抱きついたまま、フンと鼻を鳴らした。
「ズルいな。冬峰さん」
「なんのことかしら?」
「……わざと声を出しただろ」
僕が恨めしそうに言うと、冬峰さんは全く悪びれる様子もなく、上目遣いで僕を睨みつけてきた。
「別に? 事実を言っただけよ。雨に濡れて寒いのも、あなたに私だけを見てほしいのも、本当のことだもの」
「花穂に聞こえたらどうするんだよ。色々と怪しまれるだろ」
「聞こえればいいわ。あなたが今、私と一緒にいるって、日向さんにちゃんとわからせるために言ったんだから」
冬峰さんの言葉には、一切の迷いも後悔もなかった。
むしろ、他の誰かの入り込む隙を与えないという、強固な決意すら感じられた。
「君ってやつは……本当に強引で、独占欲が強いな」
「灰原くんがあの子に甘いからいけないのよ。……それに、私をこんな風にわがままにしたのは、あなたなんだから、ちゃんと責任をとってよね」
そう言って、冬峰さんは僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてくる。
完全に甘えモードに入った彼女を前にしては、僕の怒りなどすぐに霧散してしまう
「分かったよ。ほら、風邪ひくから。髪、拭いてあげるよ」
「……ありがとう」
僕がハンカチで彼女の濡れた黒髪を優しく拭き始めると、冬峰さんは大人しく目を閉じ、僕にされるがままになっていた。
至近距離で漂う、雨と混ざり合った冬峰さんの甘い香り。
古い木の匂いがする狭い東屋の中で、雨音だけが僕たちを世界から完全に隔離しているかのようだった。
「……寒くないか?」
「少しだけ。……でも、灰原くんが拭いてくれてるから、温かいわ」
冬峰さんは僕の胸元に顔を寄せ、少しだけ震える体を僕に預けてきた。
僕は拭き終わったハンカチをポケットにしまい、彼女の冷えた肩を両腕でそっと包み込んだ。
「花火……見たかったわね」
僕の腕の中で、冬峰さんがポツリと呟いた。
「ああ。でも、こんな土砂降りじゃ仕方ないさ。……また来年、見ればいい」
「……来年も、一緒に来てくれるの?」
冬峰さんが顔を上げ、期待と不安が入り混じった瞳で僕を見つめてきた。
「まあな。来年も、再来年も。僕たちの音楽が続く限り、ずっと」
僕が真っ直ぐに答えると、冬峰さんはぱぁっと花が咲いたような笑顔を見せた。
そして、彼女は僕の胸元に手を当て、ほんの数センチの距離まで顔を近づけてきた。
吐息が混ざり合うほどの距離。
「あの時、私……途中で逃げちゃったじゃない?」
彼女の言葉に、僕の顔も一気に熱くなった。
あの防音室での出来事。
冬峰さんが僕の膝の上に跨り、唇を奪おうとしたけれど、恥ずかしさに耐えきれずに僕の頬にキスをして逃げたあの瞬間。
「……ああ、覚えてるよ」
「だから、今日は……キス……しよ?」
冬峰さんは震える声でそう宣言すると、ゆっくりと目を閉じた。
「冬峰さん……」
雨音の密室の中で、僕は冬峰さんのすべてを受け入れようと顎を少しだけ上げた。
距離がゼロになる。
彼女の柔らかな唇の感触が、すぐそこまで迫った、その瞬間だった。
ピカッ‼
ゴロゴロガシャァァァンッ!!!
空を切り裂くような強烈な閃光と共に、鼓膜を破らんばかりの巨大な雷鳴が轟いた。
「ひゃああっ⁉」
突然の雷の轟音に驚いた冬峰さんが、ビクッと肩を跳ねさせて僕の胸に勢いよく飛び込んできた。
せっかくのいい雰囲気が、無情にも雷によって見事に吹き飛んでしまったのだ。
「……」
「……」
「何かコメントは?」
僕が苦笑しながら彼女の華奢な背中をそっと抱きしめると、冬峰さんは僕の胸に顔を埋めたまま、恥ずかしさと悔しさでぐりぐりと頭を押し付けてきた。
またなのか……なんかいつも邪魔が入るな。
「もう……なんでここで鳴るのよ……私の覚悟を返してよ」
「……時間はまだいくらでもあるんだから」
「……灰原くんのばかっ‼」
「はいはい」
冬峰さんは僕の胸の中で満足そうに小さく笑い、僕の背中に腕を回してぎゅっとしがみついてきた。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




