第41話 息も忘れて仕舞う位に
七月も終わりに近づき、本格的な夏休みが目前に迫ったある休日の午後。
僕の家の二階、防音パネルに囲まれた僕の部屋には、いつものように三人の姿があった。
しかし、部屋の中にはどこか、ふわふわとした落ち着かない空気が漂っている。
原因は明確だ。
数日前、この部屋で冬峰さんは、中間テストの『罰』として僕の頬に不器用なキスをした。
唇を奪う直前で恥ずかしさに耐えきれず、顔を真っ赤にして逃げてしまった彼女の熱と、頬に残った柔らかい感触が、今でも鮮明に思い出されてしまう。
僕がパソコンのモニターを見つめながら無意識に右頬に触れていると、隣に座る冬峰さんがビクッと肩を揺らした。
「……な、何よ。私の顔に何かついてる?」
冬峰さんは黒縁眼鏡の奥で視線を泳がせながら、少しだけ裏返った声で言った。
彼女もまた、あの日の出来事を思い出して平常心を保てていないのは明らかだった。
透き通るような白い肌が、耳の先までほんのりと桜色に染まっている。
「いや、なんでもないよ。ちょっと部屋が暑いかなって」
「そ、そうね。クーラーの温度、少し下げた方がいいかもしれないわ」
僕たちが不自然極まりない会話を交わしていると、背後のソファから深いため息が聞こえてきた。
「……お二人とも」
「「は、はいっ⁉」」
「先日からずっと、その妙に甘ったるくてぎこちない空気は何ですか? わたくしのいない間に、また何かありましたか? 見ていて気持ち悪いですわ」
ノートパソコンを開いていた結城さんが、ジト目で僕たちを睨みつけている。
クラスで一番頼れる彼女の鋭い観察眼をごまかすことは、至難の業だ。
「なっ、何もないわよ! テストが終わって気が抜けてるだけ!」
「そ、そうだよ! それより結城さん、動画の最終エンコードは終わった?」
僕が慌てて話題を変えると、結城さんは「まあいいでしょう」とばかりに眼鏡を押し上げ、自身のノートパソコンの画面を僕たちのモニターにミラーリングした。
「ええ、たった今、完了しましたわ。……我ながら、素晴らしい出来栄えです」
結城さんの自信に満ちた声に、僕と冬峰さんは姿勢を正した。
今日この部屋に集まったのは他でもない、『Polaris Echo』としての二曲目の動画を完成させ、投稿するためだ。
一曲目の『Rewrite』は、ネットの海で僕たちの想像を絶する大反響を巻き起こした。
『ダチA』という圧倒的な看板。
『フユ』の歌唱力。
再生数は今や数十万回を突破し、SNSでは連日僕たちの正体についての考察や称賛の言葉が飛び交っている。
次の一手は、今後の僕たちの立ち位置を決定づける重要な試金石となる。
プレッシャーがないと言えば嘘になるが、僕たちの中には確かな自信があった。
「……じゃあ、通して確認しよう。僕たちの二曲目、『Replica』だ」
僕はマウスを操作し、再生ボタンをクリックした。
モニターに映像が映し出され、スピーカーから音が流れ始める。
――ジリッ、というノイズエフェクトを混ぜた、インディーズ感の強いイントロ。
モーツァルトの『レクイエム』をイメージして作ったという、不協和音スレスレの不安定なコード進行が、部屋の空気をヒリヒリと焦がしていく。
映像は、結城さんの提案通り、スケッチブックに荒々しく鉛筆で描かれたようなラフな線画のアニメーションだ。
フレームレートをあえて落とした、コマ送りのようなザラついた質感が、曲の持つ焦燥感を見事に視覚化している。
やがて、冬峰さんのボーカルが入る。
Aメロの入りはテンポを落とし、言葉を一つ一つ置くように、絞り出すように歌う。
迷子になった子供が、暗闇の中で泣き叫んでいるような切実な声。
そこからBメロに入り、徐々に加速していくリズムに合わせて、彼女の声にも熱が帯びていく。
そして、サビ。
ドラムのクラッシュシンバルが激しく打ち鳴らされるのと同時に、映像が一気に切り替わる。
モノクロだったラフな線画の上に、ペンキを直接ぶちまけたような、ビビッドで暴力的な色彩が画面全体を侵食し始めたのだ。
それと完全にシンクロするように、音楽も爆発する。
綺麗なストリングスを排除し、前面に押し出された歪んだギターサウンド。
それに負けじと、冬峰さんがキーを下げずに地声で張り上げる、痛切なボーカル。
綺麗に整えられた優等生のような音楽ではない。
声がひっくり返りそうになり、かすれそうになりながらも、すべての感情をぶつけてくるような泥臭い叫びだ。
ボーカルと伴奏が衝突し、互いに傷つけ合いながらも一つの巨大な熱量となって押し寄せてくる。
僕が音楽を辞める直前に作り、ゴミ箱に捨てたあの未完成の残骸が、二人の圧倒的な才能によって、これ以上ないほど鮮やかな『作品』として昇華されていた。
最後のギターのノイズがフェードアウトし、動画が終了する。
部屋の中に、圧倒的な余韻と静寂が訪れた。
「……鳥肌が立ちましたわ」
結城さんが、小さく息を吐き出しながら呟いた。
「わたくしが作った映像と、お二人の音。これほどまでに感情の衝突が完璧にシンクロするなんて。前回の『Rewrite』が静かなる夜明けだとしたら、今回の『Replica』は、白昼の通り魔のような衝撃です」
「……すごい」
冬峰さんも、呆然としたように画面を見つめていた。
彼女は自分の両手を胸の前でギュッと握り締め、震える声で言葉を紡ぐ。
「これ、本当に私が歌ったのよね……今でも信じられない……灰原くん、あなたの曲、本当に最高よ」
冬峰さんは僕の方へと向き直り、興奮で潤んだ瞳で僕を見つめてきた。
「冬峰さんの声があったからだよ。あのサビの高音を地声で張り上げるなんて、君以外のボーカリストには絶対に不可能だ」
僕が素直に称賛を返すと、冬峰さんは耳の先を赤く染め、嬉しそうに目を細めた。
「さあ、お二人とも。互いを褒め合うのは投稿が終わってからにしてください。世界がこの曲を待っていますよ」
結城さんが手元のノートパソコンを操作し、動画共有プラットフォームのアップロード画面を表示させた。
タイトル:Polaris Echo 『Replica』
歌:フユ
作詞・作曲・編曲:タラ
動画・イラスト:ダチA
「準備は完了です。灰原さん、今回もボタンをお願いします」
結城さんに促され、僕はマウスに手を伸ばした。
一曲目の時のような、過去のトラウマによる恐怖はもうない。
今の僕には、隣に座る最高のボーカリストと、背中を支えてくれる最高のクリエイターがいるのだから。
僕がクリックボタンに指をかけた瞬間、僕の右手に、ひんやりとした冬峰さんの手がそっと重ねられた。
「……一緒に、押しましょ?」
冬峰さんが、静かに微笑みながら言った。
僕は彼女の顔を見つめ返し、小さく頷いた。
二人で力を込め、カチッという音と共に動画をネットの海へと放つ。
プログレスバーが伸び、『完了』の文字が表示された。
僕たちの二曲目が、世界に向けて公開された瞬間だった。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




