第4話 遠くぼやけた空を信じて前を進め
旧音楽室での決定的な出来事から、数日が経過した。
あの日、『氷の令嬢』と呼ばれる冬峰 凛から突きつけられた、あまりにも強引で真っ直ぐな全肯定。
『私を天才にしてくれたのは、あなたの曲だよ』
その言葉は、僕の脳裏に深く焼き付いて離れなかった。
夜、ベッドに入って目を閉じても、冬峰さんの熱を帯びた瞳と、僕の捨てた曲を歌い上げる圧倒的な歌声がフラッシュバックして、まともに眠れない日々が続いている。
僕はあの時、「今の僕にはあの時みたいにまた曲を作ることができない」と逃げるように言い訳をして、冬峰さんの差し出した手を保留にしてしまった。
本当に、臆病で情けない。
◇◇◇
「……はぁ」
朝の通学路。
僕は無意識のうちに重いため息を漏らしていた。
数日前、花穂と口論になってしまったことも、憂鬱な気分に拍車をかけている。
『この際だから言っておくが、僕はもう作らないぞ』
『何でよ! 意地になって!』
『んだと!?』
『な゛に゛よ゛!』
あんな風に語気を荒げて言い争うなんて、小学生の頃の喧嘩以来だった。
花穂の優しさが痛くて、つい突き放すような態度をとってしまった自分が心底嫌になる。
隣を歩く花穂は、あの口論の余波を引きずっているのか、いつもなら絶え間なく続くお喋りも今日は少なめだった。
高校に入ってクラスは別になってしまったが、彼女はお昼休みになるとわざわざ僕の教室までやってきて一緒に弁当を食べることが多い。
持ち前の明るさと愛嬌で瞬く間に人気を集め、実は『学年で三番目にかわいい女の子』と密かに噂されている彼女の存在は、今の僕には眩しすぎた。
「花穂……この前はごめんな」
「つーん」
花穂は表情に感情が出るので、拗ねると分かりやすい。
「……奏多、最近変だよ。なんか倒れちゃいそう」
「そうか……心配させちゃったな」
「目の下にクマできてるし、ちゃんと寝てるの?」
それでも、少し沈んだトーンで僕を気遣ってくれる花穂の太陽のような明るさに、胸が締め付けられる。
「……ごめん。ちょっと夜更かししただけだ。ゲームのイベントがあってさ」
「ふーん……まあ、無理しないようにね」
「ごめんな」
花穂はそれ以上は追及せず、前を向いた。
彼女なりに、僕が深く踏み込まれたくない領域を持っていることを察してくれているのだろう。
クラスで一番の美少女と旧校舎で密会し、音楽の世界に引き戻されそうになっているなんて、今の僕には口が裂けても言えるはずがなかった。
自分の教室に入ると、すでにホームルーム前の喧騒が広がっていた。
新しい友達グループが形成され、あちこちで笑い声が弾けている。
その中で、一箇所だけ明らかに異質な空気を放っている場所があった。
窓際の最後列、冬峰 凛の席だ。
透き通るような白い肌と艶やかな黒髪。
顔の半分を隠すような無骨な黒縁眼鏡をかけていても隠しきれない圧倒的な美貌。
しかし、冬峰さんは周囲の喧騒など一切耳に入っていないかのように、文庫本に視線を落とし、見えない分厚い壁を築いていた。
誰かが声をかけても、無言で首を振るか、冷たい視線で射抜くだけ。
まさに『氷の令嬢』という二つ名がふさわしい、孤高の佇まいだった。
「凛、今日の移動教室、わたくしが案内しましょうか?」
唯一、その絶対領域に足を踏み入れることを許されているのが、結城 栞だった。
大人しそうな雰囲気の結城さんは、持ち前の気配り上手な性格から、今では『クラス内で一番頼れて二番目にかわいい人』という立ち位置を確立している。
結城さんが声をかけると、冬峰さんはふっと表情を和らげ、小さく頷く。
「……うん、お願い」
その短いやり取りだけで、二人の間には強い信頼関係があることが窺えた。
なぜ、学年一の美少女である冬峰さんが、あそこまで頑なに他者を拒絶し、結城さん以外の人間とは一切口を利こうとしないのか。
僕には知る由もない。
もしかすると何か過去に深い理由があるのかもしれないが、誰も冬峰さんの本当の姿を知らないし、知ろうとしてもその見えない壁に阻まれてしまうのだ。
ただ、彼女が誰かを寄せ付けないために纏っている冷たい空気は、まるで自分自身を守るための分厚い鎧のようにも見えた。
あんなに冷たい目をしているのに……僕の曲を歌う時だけは、あんなに熱くなるなんてな。
遠巻きに冬峰さんの姿を見つめながら、僕は小さく息を吐いた。
保留にして逃げ出したものの、僕の心はもう半分以上、彼女の引力に囚われていた。
ただ、もう一度傷つくことへの恐怖が、最後の一歩を踏み出すのを躊躇わせているだけだ。
◇◇◇
その日の放課後。
「凛、今日はいつもの場所へは先に行ってください。」
「……え?良いけど」
そんな会話を尻目に、いつものように誰とも関わらず、逃げるように教室を出て帰路につこうとした僕の前に、思わぬ人物が立ち塞がった。
「灰原さん。少しだけ、お時間よろしいですか?」
「……結城さん? 僕に?」
「はい」
声をかけてきたのは、結城 栞だった。
普段の温和な笑顔とは違い、その奥の瞳は、どこか値踏みするような鋭い光を帯びていた。
「ここではアレなので、少し場所を変えましょうか」
クラス内で一番頼れる人から全く接点のない人へのお誘い。
周囲の人からの視線が妙に刺さった。
「分かった」
結城さんの圧力に屈した僕は、しぶしぶ承諾をすることとなった。




