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第3話 世界、私、どっちか壊れているみたい

「なぜ、こんな場所で僕の曲が……?」


 疑問が口を突いて出る。


 あの曲のデータはパソコンから完全に消去したはずだ。動画も削除した。


 ネットの海のどこかに残っていたとしても、あんな無価値な『凡作』をわざわざ拾い上げて歌う人間なんているはずがない。


 しかし、現実に扉の向こうからは僕の曲が聞こえてくる。


 それも、僕が想像していたような安っぽい電子音ではない。


 圧倒的な歌唱力を持った()()()()によって、空っぽだった僕の曲に、どくどくと血が巡り、鮮やかな命が吹き込まれていくのがわかった。


 かつて『心がない凡作』と嘲笑われた旋律が、今、信じられないほどの熱を帯びて世界に響き渡ろうとしている。


 僕が頭の中で思い描いていた理想の形よりも、ずっと美しく、ずっと力強い響きだった。


 誘われるように、僕は震える手で扉に触れ、少しだけ隙間を開けた。


 オレンジ色に染まった埃っぽい旧音楽室の真ん中で。


 一人の少女が、目を閉じて歌っていた。


 長い黒髪が、夕日の逆光を受けてシルエットのように浮かび上がっている。


 その横顔を見た瞬間、僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。


 冬峰ふゆみね りん


 誰も寄せ付けないはずの『氷の令嬢』が、誰にも見せないような情熱的で切実な表情で、僕の捨てた曲を歌っている。


 彼女が、僕の曲を……?


 理解が追いつかない。


 教室で見せる冷たさなど微塵も感じさせない。


 冬峰ふゆみねさんの全身から溢れ出す音への異常なまでの渇望と、祈るような歌声に、僕はただ圧倒され、身動きすら取れなくなっていた。


 やがて、曲が静かに終わりを迎える。


 最後の余韻が古い教室の空気に溶け込み、完全な静寂が訪れた。


 僕は我に返り、慌ててその場から立ち去ろうとした。


 見られてはいけない。


 僕がこの曲の作者だなんて知られれば、またあの日のような惨めな思いをするだけだ。


 天才的な歌唱力を持つ彼女に、凡人の僕が作った曲だと知られたら、今度こそ完全に心を壊されてしまうかもしれない。


 しかし、扉から手を離そうとした瞬間、古い蝶番が「キィッ」と甲高い音を立ててしまった。


「……()


 音楽室の中から、凛とした冷たい声が響く。


 しまった、気付かれた。


 逃げるべきか。


 いや、今走って逃げたら余計に怪しまれる。


 僕は観念して、ゆっくりと扉を開けて音楽室の中へと足を踏み入れた。


「あ、ごめん! 覗くつもりはなかったんだけど、その……すごい歌声が聞こえたから、つい……」


 しどろもどろになりながら言い訳をしようとした僕の言葉は、冬峰ふゆみねさんの鋭い視線によって強制的に遮られた。


 先ほどまでの情熱的に歌っていた姿はどこへやら、彼女は素早く机の上の眼鏡をかけると、すっかり普段の『氷の令嬢』の表情に戻っていた。


 冷たく、感情を一切見せない氷のような瞳が、レンズ越しに僕の顔をじっと見つめている。


「…………」


 冬峰ふゆみねさんは何も言わず、ゆっくりと僕の方へ歩み寄ってきた。


 一歩、また一歩。


 床板が小さく軋む音が、僕の心臓の鼓動と重なる。


 冬峰ふゆみねさんが近づくにつれて、目に見えないプレッシャーに押されるようにして僕は後ずさった。


 やがて僕の背中が音楽室の黒板にぶつかり、完全に逃げ場がなくなる。


 冬峰ふゆみねさんは僕の目の前で立ち止まると、じっと僕の瞳を覗き込んできた。


 美しすぎる彼女の顔が、鼻先が触れそうなほど近くにある。


 夕日の光が、彼女の長い睫毛の影を白い頬に落としていた。


「あなた、灰原はいばら 奏多かなた……よね?」


「え、あ、うん。そうだけど……」


 こんな学年一の美少女にして、誰とも関わろうとしない氷の令嬢が、全く接点のないただのクラスメイトである僕の名前を覚えていることに驚愕した。


 だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。


 冬峰ふゆみねさんはさらに一歩踏み込み、僕の制服の胸ぐらを両手できつく掴んだ。


「じゃあ、あなたが、()()()ね」


「なっ……!!」


 息が止まった。


 誰にも言っていない秘密。


 もう二度と名乗るつもりのなかった、呪いのような名前。


 両親にすら隠していたその事実を、なぜ目の前の少女が知っているのか。


「どうして、それを……」


 震える声で絞り出すように問うと、冬峰ふゆみねさんは掴んだ胸ぐらを引き寄せ、僕の目から絶対に視線を外さないまま言い放った。


「わかるに決まってる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 冬峰ふゆみねさんの瞳には、普段の冷たい印象からは想像もつかないほどの、狂気すら孕んだ強い熱が宿っていた。


 それは、何かを強烈に求め、暗闇の中でようやく一筋の光を見つけ出した人間の目だった。


 氷の奥底で燃え盛るような、激しい感情の奔流。


「……え?」


「ずっと探してた。この曲を作った人を。私の魂を乗せられる、唯一の音を紡げる人を」


 冬峰ふゆみねさんの声は微かに震えていた。


 怒りではない。


 それは歓喜の震えだった。


「やっと見つけた。私の、世界で唯一の()()


「違う!!!」


 僕はたまらず叫び、冬峰ふゆみねさんの手を強引に振り払った。


 過去のトラウマがフラッシュバックし、胃の奥がせり上がるような不快感に襲われる。


 耳の奥で、かつて投げつけられた誹謗中傷の言葉がノイズのように響く。


「よしてくれ! 僕は天才なんかじゃない! あの曲だって誰の心にも響かない、ただの凡作だ! ネットでも散々叩かれた! だからもう、音楽は捨てたんだ!」


 呼吸を荒らげながら、僕は後退った。


 才能のない人間が夢を見た末路は、惨めな現実だけだ。


 冬峰ふゆみねさんがどれだけ過大評価をしてくれているのかは知らないが、期待されたところで僕は何も返すことはできない。


 僕の中にはもう、誰かに届けるための音なんて残っていないのだ。


「とにかく! 見ちゃったことは何も言わないから」


 逃げなければ。


 これ以上、この少女と関わってはいけない。


 踵を返し、音楽室の出口へ向かおうとした僕の腕を、冬峰ふゆみねさんの手が力強く掴んだ。


 細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、その手は絶対に僕を逃がさないという強い意志を持っていた。


「待って、あなたは凡人でもいい」


 背後から、冬峰ふゆみねさんの凛とした声が響く。


()()天才にしてくれたのは、あなたの曲だよ」


 振り返ると、冬峰ふゆみねさんは泣きそうな、けれど絶対に譲らないという強固な意志を持った顔で僕を睨みつけていた。


「世間の評価なんてどうでもいい。ネットの人間が何を言おうと関係ない。私には、あなたの作る灰色の旋律が一番鮮やかに聞こえるの。だから、お願い」


 彼女は僕の腕を掴んだまま、一歩近づき、縋るように言った。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 それは、僕がずっと欲しかった、けれど誰からも貰えなかった言葉だった。


 ゴミ箱に捨てた無価値な石ころを、彼女は『星だ』と言って拾い上げてくれたのだ。


 氷の令嬢は、熱を帯びた瞳で僕を射抜く。


 彼女の体温が、掴まれた腕から僕の中に一気に流れ込んでくるような気がした。


 凍りついていた僕の時間が、再び動き出そうとしている。


 それでも。


 ――僕の心に深く根を張った恐怖は、そう簡単には消え去ってくれない。


「……ごめん。すぐには、頷けない」


「え……? どうして?」


「君の言葉は本当に嬉しい。でも、さっきも言ったが、今の僕にはあの時みたいにまた曲を作ることができない。だから少しだけ、考えさせてほしい。」


 冬峰ふゆみねさんは少しだけ目を見開いた後、再びふっと静かに微笑んだ。


「……わかった。」


 彼女は差し出した手を引っ込めると、真っすぐに僕の瞳を見つめ返した。


「でも、私は絶対に諦めないから。あなたの音が私を救ったように、今度は私があなたを救い出してみせる。……だから、その時まで待ってるわ」


「僕にその実力はない……ないんだよ。」


 その力強すぎる眼差しから逃れるようにして、僕は捨て台詞とも呼べる言葉を放つと旧音楽室を後にした。


 静かに息を潜めて、誰にも見つからないように送るはずだった僕の灰色の高校生活。


 その運命は、この四月の夕暮れ時、圧倒的な歌声を持つ孤独な少女の、独りよがりで強引な手によって鮮やかに塗り替えられてしまったのだ。

カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。

先が気になった方はそちらもご覧ください。

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