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第2話 ひとりごと、耳傾け手を取った君

 四月。


 桜の花びらが舞い散る季節は、新しい始まりを予感させるとのことだが、僕にとってはただの憂鬱な季節の変わり目でしかなかった。


 新しく始まった高校生活で、僕はただ息を潜めて、誰の記憶にも残らないようにやり過ごすつもりだった。


 灰原はいばら 奏多かなた。それが僕の名前だ。


 その名前の通り、これからの僕の人生は灰色でいい。


 もう誰の心にも届かない、無価値な音を紡ぐ必要なんて、世界のどこにもないのだから。


奏多かなた! ちょっと、聞いてるの⁉」


 朝の通学路。


 隣を歩いていた幼馴染の日向ひなた 花穂かほが、不満げに頬を膨らませて僕の顔を覗き込んできた。


 春の陽光を反射してきらきらと輝く明るい茶髪に、快活な笑顔。


 彼女は昔から『太陽』という言葉がよく似合う女の子だった。


 僕たちは偶然にも地元の同じ私立高校に進学し、こうして毎朝一緒に登校している。


「聞いてるよ。今日のお弁当のおかずが卵焼きだったって話だろ?」


「ちがーう! それは五分前の話! あたしが聞いてるのは、高校に入ってから部活はどうするのかってこと!」


 花穂かほは大きくため息をつきながら、僕の前に回り込んで立ち止まった。


 春風が彼女の明るい髪をふわりと揺らし、微かに甘いシャンプーの香りが漂う。


()()()だよ。最初からそう言ってるだろ」


「またそうやって無気力なこと言って……奏多かなた、本当にまた曲作らないの? あたし、奏多かなたの作る音楽、すごく好きだったんだけどな……」


 花穂かほの言葉のトーンが、急に少しだけ沈んだ。


 彼女は、僕が中学生のころにこっそりと曲を作っていたことを知っている数少ない人物の一人だ。


 隣の家から漏れ聞こえてくる僕の拙いピアノの音を、彼女はいつも文句ひとつ言わずに聞いてくれていた。


 僕がネットの評価に傷ついて塞ぎ込んで引退を決意したときも、まるで自分のことのように大泣きして、一番近くで心を痛めてくれた。


「この際だから言っておくが、僕はもう作らないぞ」


「何でよ! 意地になって!」


「んだと⁉」


「な゛に゛よ゛!」


 そんなブルドーザーみたいな声を朝から出さないでくれ……


 花穂かほの優しさは、今の僕にはただ痛いだけだ。


 僕なんかのために心を痛めてくれる彼女には感謝しているけれど、だからといって、もう一度あの残酷な世界に戻る勇気は、僕の心には微塵も残っていなかった。


「とにかく、もう作らないよ。僕には才能がないって、もう嫌というほどわかったから」


 僕は視線を逸らし、短く、そして冷たく答えた。


「……才能なんて、最初からある人なんていないよ」


 花穂かほが小さな声で呟いたが、僕は聞こえないふりをして歩き出した。


 ごめん、花穂かほ


 君のその真っ直ぐな言葉は、今の僕には眩しすぎるんだ。


◇◇◇


 放課後の教室は、新しい環境に浮かれた生徒たちの熱気に満ちていた。


 部活動の勧誘に向かう者、新しくできた友達と連絡先を交換して遊びに行く約束をする者。


 それぞれが色鮮やかな青春のスタートラインに立って、これからの高校生活への期待に胸を膨らませている。


 そんな中で、僕は一人、静かに鞄に教科書をしまっていた。


 ふと、視界の端に一人の少女が映り込んだ。


 冬峰(ふゆみね) りん


 僕と同じクラスになった彼女は、入学してまだ間もないというのに、『クラスで一番かわいい女の子』とされている。


 透き通るような白い肌に、艶やかで長い黒髪。


 そして、その美しい顔立ちの半分を隠すような、無骨な黒縁の眼鏡。


 誰もが振り返るほどの圧倒的な美貌を持ちながら、彼女は誰に対しても一切の愛想を振りまかない。


 常に無口で無表情。


 話しかけられても、まるで冷たい冬の風が吹き抜けるように相手をあしらってしまうことから、彼女は密かに『氷の令嬢』と呼ばれていた。


 彼女の周りには、いつも目に見えない分厚い壁がある。


 唯一、結城ゆうきしおりという大人しそうな女子生徒だけは会話がすることができる。


 彼女も僕たちと同じクラスで、持ち前の気配り上手な性格から、四月なのに『クラス内で一番頼れて二番目にかわいい人』だ。


 遠くからでも、二人の会話が微かに聞こえてくる。


りん、今日もあそこで待ちましょうか?」


「うん」


「場所は分かりますか? わたくしが案内しましょうか?」


「……うん、お願い」


 短く頷く冬峰ふゆみねさんの姿は、やはりどこか近寄りがたいオーラを放っていた。


 結城ゆうきさん以外の生徒が声をかけても、無言で首を振るだけなのだ。


 まるで自分だけの強固な城壁を築き、誰も立ち入らせないようにしているかのようだった。


 圧倒的な存在感がありながら、その瞳の奥には、どこか深い孤独が潜んでいるように見えた。


 僕とは住む世界が違う人間だ。


 そう勝手に結論づけて、僕は鞄を手に取り、早々に教室から逃げ出すことにした。


 誰かと関われば、それだけ波風が立つ。


 灰色の高校生活を守るためには、誰の目にも留まらない透明人間でいるのが一番なのだ。


 人の喧騒から逃れるようにして僕が向かったのは、校舎の裏手にある渡り廊下を越えた先。


 ――現在はほとんど使われていない旧校舎だった。


 一応、一部の文化部が倉庫として使っているらしいが、放課後は薄暗く、不気味な雰囲気があるため誰も寄り付かない。


 コンクリートの壁にはひびが入り、枯れた蔦が這い上がっている。


 静寂を求める僕にとっては、絶好の隠れ家だった。


 軋む木の廊下をゆっくりと歩く。


 埃っぽい空気が鼻を突き、夕日が窓ガラス越しに長い影を落としている。


 どこかの教室から持ち出されたまま放置されているパイプ椅子や、古びた掲示板の跡を横目に、僕は階段を上った。


 このまま誰も来ない教室で、外が暗くなるまで時間が過ぎるのを待つつもりだった。


 三階の突き当たり。


 かつて音楽室として使われていたであろう部屋の前まで来たときだった。


 ――不意に、微かな歌声が耳を打った。


「なんだ……?」


 思わず立ち止まり、息を呑む。


 旧校舎には誰もいないはずだった。


 それに、ここは防音設備もないただの古い教室だ。


 歌の練習をするなら、新校舎の真新しい音楽室を使えばいいはずだ。


 しかし、扉の向こうから聞こえてくるその歌声は、僕の思考を強制的に停止させるほどの強烈な魔力を持っていた。


 透き通るような、それでいて魂の奥底を直接揺さぶるような、強く熱い声。


 アカペラでありながら、まるで背後にフルオーケストラが控えているかのような圧倒的な存在感と空間の広がりを感じさせる。


 僕は無意識のうちに扉に近づき、隙間から漏れ聞こえてくる旋律に耳を澄ませた。


 ――全身の血の気が一気に引くのを感じた。


 そのメロディラインには、嫌というほど聞き覚えがあった。


 不器用な転調。


 感情を持て余したような、どこか歪で不完全なサビの入り方。


 コード進行も素人臭く、洗練されているとは到底言えない未熟な構成。


 間違いない。


 それは中学生のころ、僕が『アルタ』という名前でネットに最後に投稿し、そして心ない言葉に打ちのめされてゴミ箱に捨てたはずの、あのボツ曲だった。

カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。

先が気になった方はそちらもご覧ください。

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