第39話 自由は僕になんて言うだろう
梅雨の重たい雲が少しずつ空から姿を消し、本格的な夏の気配が蝉の鳴き声と共に押し寄せてくる頃。
僕たち一年生にとって初めての大きな壁となる、七月の中間テストの本番がやってきた。
蒸し暑い外気と、教室の天井でフル稼働しているクーラーの冷気が混ざり合う空間。
静まり返った教室に響くのは、カリカリと鉛筆やシャーペンが紙を滑る音と、時折誰かが問題用紙をめくる音だけだ。
僕は目の前の数学の問題用紙と向き合いながら、小さく息を吐いた。
基礎的な公式の代入問題から始まり、徐々に難易度を上げていく応用問題。
今回のテストに限っては、僕の背中にはかつてないほどの巨大なプレッシャーがのしかかっていた。
『もし私が、今回のテストで灰原くんの順位を超えられたら。私に、たっぷり罰を与える権利を頂戴』
『でも、もし私が超えられなかったら……その時は、あなたの方から、私に罰をちょうだいね?』
数日前、僕の家の一階リビングで行われた四人での勉強会。
冬峰さんから突きつけられたあの甘く恐ろしい駆け引き。
どっちに転んでも、僕の部屋で限界まで密着してイチャイチャする未来しか待っていないという、逃げ場のない二択。
だが、それはそれとして、男としての意地もある。
才能の壁に絶望し、一度は音楽を捨てた僕だが、勉強においてまで冬峰さんに負けるわけにはいかない。
それに、もし冬峰さんが僕の順位を上回り、『罰を与える権利』を得てしまったら、彼女のあの異常なまでの独占欲が暴走し、僕の理性が完全に消し飛んでしまうことは火を見るより明らかだった。
それだけは、なんとしても避けなければならない。
僕はシャーペンを握る手に力を込め、残りの証明問題へと食らいついた。
ふと、問題を解き終えたタイミングで顔を上げ、斜め前方の席に視線を向ける。
そこには、結城さんの姿があった。
彼女はすでにすべての問題を解き終えたのか、鉛筆を机の上に置き、窓の外の景色を優雅に眺めている。
さすがは学年トップクラスに君臨する本物の秀才だ。
そして、僕はそっと視線をずらし、窓際の最後列へと向けた。
冬峰さんは今、無骨な黒縁眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、猛烈な勢いで問題用紙にシャーペンを走らせていた。
文系科目は完璧だが、理系科目はそこそこというムラのある成績だったはずの彼女が、かつてないほどの集中力を発揮している。
その背中からは、「絶対に灰原くんの順位を超えてみせる」という、音楽に対するそれと同じくらい強烈なパッションと執念が立ち上っているように見えた。
彼女のあの執念は、間違いなく僕への『罰』を獲得するためのものだ。
恐ろしい……
ゾクリと背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、僕は慌てて自分の問題用紙に視線を戻し、見直しの作業に入った。
一方、隣のクラスでは。
花穂が、頭を抱えて机に突っ伏していることだろう。
結城さんのスパルタ指導のおかげで赤点だけはなんとか回避できそうだが、後半の応用問題には全く歯が立たず、涙目で鉛筆を転がして運を天に任せている姿が目に浮かぶ。
それぞれの思惑と執念が交錯する中、三日間にわたる中間テストの戦いは、静かに、そして確実に終わりへと向かっていった。
◇◇◇
それから数日後。
すべての教科の採点が終わり、一階の廊下にある大きな掲示板に、学年順位の上位五十名までの名前が貼り出された。
昼休みを知らせるチャイムが鳴るや否や、掲示板の前には自分の順位を確認しようとする生徒たちが殺到し、黒山の人だかりができていた。
僕も少し離れた場所から、人混みがバラけるのを待っていた。
「奏多ーっ‼」
「んぉっ⁉」
背後から鼓膜を震わせるほど明るい声が響き、僕の右腕に柔らかな重みがガシッと抱きついてきた。
柑橘系の爽やかな香りがふわりと漂う。
隣のクラスの花穂だった。
「お、おい花穂! 廊下でくっつくなよ!」
「いいじゃんいいじゃん! ねえ聞いてよ‼ あたし、赤点ゼロだった‼ それに、順位も学年で三十八位だったの‼」
「マジで⁉」
花穂は満面の笑みを浮かべ、僕の腕を揺さぶりながらピョンピョンと飛び跳ねた。
「三十八位か。結城さんの特訓の成果が出たな。おめでとう」
「うんっ! これも結城さんと、奏多のおかげだよ! ありがと!」
花穂が無邪気に喜んでいる姿を見て、僕も自然と笑みがこぼれた。
「あら、日向さん。おめでとうございます」
不意に、優雅な足音と共に結城さんが近づいてきた。
「あっ、結城さん! 本当にありがとうございました!」
「いえいえ。……それで、灰原さんの結果はいかがでしたか?」
結城さんが瞳を光らせて問いかけてくる。
「今から見るとこだ」
人混みが少し減ったのを見計らい、僕たちは揃って掲示板の前へと歩み寄った。
まず目に飛び込んできたのは、最上位のブロックだ。
【学年三位 結城 栞】
「うわぁ……! 結城さん、学年三位⁉」
花穂が驚嘆の声を上げる。
「ふふっ。まあ、わたくしにかかればこの程度ですわ。次は学年トップを目指しますわ」
トップクラスどころか、三位。
彼女のスペックの高さには本当に底が知れない。
そして、僕は自分の名前を探して視線を下へとスライドさせていった。
二十位……はないと信じて、十九位、十八位……っと、あった。
【学年十五位 灰原 奏多】
「よし……」
僕は小さくガッツポーズをした。
トップ二十位という目標をしっかりとクリアし、いつも通りの安定した順位をキープすることができた。
「さすが奏多だね! 十五位なんて、あたしからしたら雲の上の世界だよぉ」
花穂が感心したように僕の肩を叩く。
「ありがとう。でも……」
しかし、僕の視線はそこでは止まらなかった。
一番重要なのは、彼女の順位だ。
冬峰さんが、僕の十五位という順位を超えているかどうか。
僕と結城さんは、息を呑んでさらに下へと視線を這わせた。
二十位……二十一位……二十二位……。
……ん?
ない。
二十位までの中にも、三十位までの中にも、冬峰さんの名前が見当たらない。
「あれ? 冬峰さんの名前がないな……」
僕が不思議に思って呟くと、結城さんが少しだけ困ったような、それでいてどこか面白がっているようなため息を吐いた。
「灰原さん。……もう少し、上ですわ」
「上?」
僕は視線を上へと戻した。
十位、十一位、十二位……
そして。
【学年十三位 冬峰 凛】




