第38話 約束の時間までそのままでいいよ
「頭を使いすぎて糖分が足りませんわ。わたくし、キッチンで冷たいお茶を淹れ直して、妹さんからお菓子をもらってきます」
「あ、あたしも手伝う!」
花穂は冬峰さんを一度だけキッと睨みつけると、結城さんに続くように立ち上がり、リビングの奥にあるキッチンへと向かっていった。
二人の姿が見えなくなり、広々としたリビングのダイニングテーブルには、僕と冬峰さんの二人だけが残された。
キッチンの奥からは、花穂と妹が楽しそうに話している声と、水道の水音が微かに聞こえてくる。
「……疲れたわね」
冬峰さんが深い溜息をつき、僕の方へと顔を向けた。
「誰のせいだ、誰の」
「灰原くんのせいよ」
「僕のせいかよ⁉」
冬峰さんは黒縁眼鏡を外し、テーブルの上にコトンと置いた。
学校での仮面を外し、完全にリラックスした素の顔。
二人きりになった途端、先ほどまでの冷たいオーラは霧散し、途端に甘い空気が漂い始める。
「結城さんの教え方が的確だから、一人でやるよりは何倍も捗るよ」
「そうね。……でも、少し面白くないわ」
冬峰さんは少しだけ口を尖らせ、僕を真っ直ぐに見つめてきた。
「なんだよ」
「……随分と、日向さんと楽しそうに密着していたわね」
「嫌味かよ」
「嫌味よ。よく分かってるじゃない」
僕は背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、必死に次の言葉を探した。
「仕方ないだろ、幼馴染なんだから。昔からの癖みたいなもんで、深い意味はないんだよ」
「言い訳は聞きたくないわ」
冬峰さんはそう言うと、テーブルの上に置かれていた自分の左手を、ゆっくりと僕の方へと伸ばしてきた。
そして、僕の右手の指と指の間に、自分の細く冷たい指先を滑り込ませた。
ひんやりとした彼女の肌の感触。
そのまま、彼女は僕の手をテーブルの下。
――花穂たちがキッチンから戻ってきても絶対に見えない死角へと引き込み、しっかりと恋人繋ぎで握りしめてきた。
「っ……冬峰、さん……⁉」
突然の机の下での密着に、僕は思わず声を上げそうになり、慌てて口を塞いだ。
リビングという開かれた空間で、いつキッチンから人が戻ってくるかもわからない状況。
そんなスリルの中で、彼女の手から伝わってくる熱は火傷しそうなほどに熱かった。
「やっぱり、灰原くんには罰が必要だと思うの」
「罰って……」
「……他の女の子に触らせた分、私で上書きしてちょうだい」
冬峰さんは僕の手を強く握りしめたまま、上目遣いで僕を覗き込んできた。
先ほど花穂に対して放っていた絶対零度のオーラと同一人物とは到底思えない。
「……二人が戻ってくるかもしれないぞ」
「来たら離すわ。でも、今はこうしていたい」
冬峰さんは僕を独占するためならどんなリスクも厭わない。
繋がれた手のひらから彼女の脈動が直接伝わってきて、僕自身の心拍数も恐ろしいほどの速さで跳ね上がっていく。
ドクン、ドクンと、うるさいほどの不協和音が胸の奥で鳴り響く。
「……ねえ、灰原くん」
冬峰さんが囁くような甘い声で僕の名前を呼んだ。
「何かな?」
「もし私が、今回のテストで灰原くんの順位を超えられたら。私に、たっぷり『罰』を与える権利を頂戴」
冬峰さんの言葉に、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
部屋で、彼女が僕の膝の上に跨り、あわやキスをする寸前までいったあの狂おしいほどの密着の記憶。
妹の乱入によって未遂に終わったあの『罰』を、彼女はまだ諦めていなかったのだ。
「っ……⁉ 僕の順位を超えるなんて、いくらなんでも無茶だ。今の君の成績を考えたらわかることだ」
「だからこそ、やりがいがあるんじゃない」
冬峰さんは机の下で繋いだ手にきゅっと力を込め、さらに甘く、そして挑発的な笑みを浮かべた。
「でも、もし私が灰原くんの順位を超えられなかったら……」
「超えられなかったら?」
「その時は、あなたの方から、私に『罰』をちょうだいね?」
「……っ‼」
果たしてそれは、駆け引きになっているのだろうか。
どっちに転んでも、僕たちが限界まで密着してイチャイチャする未来しか見えない、恐ろしい駆け引きだった。
こんなにも重たくて、甘すぎる条件を提示されて、平常心で勉強になんて集中できるはずがない。
「ダメ? ……こんなに毎日、あなたのことばかり考えてて、勉強に手がつかない私の責任、とってくれないの?」
甘く震える声で囁かれ、僕は完全に理性を手放しそうになった。
冬峰さんの美しい顔が、あと数センチで触れ合う距離まで近づいてくる。
僕はもう逃げることを諦め、小さく頷きかけた。
その瞬間。
「お待たせー! 麦茶とクッキー持ってきたよー!」
キッチンの奥から、花穂の明るい声が響いた。
「お、おっ、サンキューな‼」
僕と冬峰さんは、弾かれたように飛び退き、机の下で繋いでいた手を慌てて引き離した。
「こ、ここの数式の展開だけど、これで合ってると思うよ⁉」
「そ、そうね! それで間違いないと思うわ!」
顔を茹でダコのように真っ赤にして、裏返った声で必死に勉強しているふりをする僕たち。
冬峰さんも素早く黒縁眼鏡をかけ直す。
「え? 休憩中じゃないの?」
「一問だけ、変なところがあったから教わってただけだよ」
「ふぅーん」
お盆を持って戻ってきた花穂は、不思議そうに首を傾げている。
その後ろから歩いてきた結城さんは、僕たちの不自然極まりない様子を見て、冷ややかな目を細め、深い溜息を吐いた。
「……まったく。五分も目を離せばこれですか。そういうのは、テストで結果を出してからにしてくださいね、お二人とも」
「「はい……」」
結城さんの鋭い一瞥に射抜かれ、僕たちは急いでノートに視線を落とした。
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