第37話 ほどけない感情持ち寄って
それから一時間ほど、息の詰まるようなみっちりとした指導が続いた。
「ん〜〜〜っ‼ わっかんない!」
不意に、花穂がシャーペンを放り出し、大きく伸びをした。
そして、斜め向かいに座っている僕の右腕に、自分の両腕を絡ませてぎゅっと抱きついてきた。
「奏多ぁ、ここの因数分解、どうやってやるのー? 教えてよー!」
「ちょっ、花穂! くっつくなって、暑いだろ!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし! 奏多も頭いいんだから、サクッと教えてよー!」
「時間は減るんだよ」
花穂の柑橘系のシャンプーの香りが漂い、柔らかな感触が腕に押し付けられる。
一見すれば、ただの幼馴染特有の距離感の近さだ。
しかし、彼女が僕の腕を抱きしめるその力の強さと、チラリと向かい側に座る冬峰さんへと向けられた視線には、明確な牽制の意図が含まれていた。
『奏多にこんなに無防備に甘えられるのは、昔からずっと隣にいるあたしだけなんだよ』という、他の誰にも入り込めない特権の誇示。
その瞬間。
向かい側に座る冬峰さんの周囲の温度が、一気に絶対零度まで下がったのがわかった。
「……日向さん」
冬峰さんの声は、まるで吹雪のように冷たく、そして鋭かった。
黒縁眼鏡の奥の瞳が、僕の腕に抱きつく花穂を射抜いている。
「灰原くんも今、自分の問題集のチェックで手一杯よ。彼を困らせないで」
「えー? 別に困ってないよね、奏多?」
花穂は冬峰さんの冷たい視線を真正面から受け止めながらも、一歩も引こうとしない。
むしろ、僕の腕を抱きしめる力をさらに強めてみせた。
た、助けて……
「昔からいつも一緒に宿題やってたし! それに、あたし、奏多のお母さんからも『花穂ちゃん、奏多のことよろしくね』って昔から頼まれてるから。奏多のお世話をするのは、あたしの役目‼」
「お、おい花穂……落ち着いて」
過去の時間の長さと、家族ぐるみの公認の関係。
花穂が繰り出したそれは、ぽっと出のクラスメイトである冬峰さんを遠ざけるには十分すぎるほど強力な武器だった。
普通の女子なら、ここで気圧されて引いてしまうだろう。
しかし、相手が悪い。
「……そう」
冬峰さんは表面上は優雅に微笑んだが、その瞳の奥には、花穂の武器を冷ややかに見下すような昏い炎が宿っていた。
「昔からずっと一緒にいたからといって、彼のすべてを理解しているわけではないでしょう?」
「えっ……?」
「は⁉」
花穂の顔から、余裕の笑みがスッと消え去った。
「過去の時間の長さに縋るよりも、今の彼にとって誰が一番必要な存在なのか。……それが重要だと思わない?」
冬峰さんの言葉は静かだったが、その裏には、圧倒的な優越感が張り付いていた。
僕が音楽を捨てた過去を知っているだけの花穂と。
僕に再び音楽を作らせ、今の『タラ』としての僕の旋律と才能を世界で一番理解し、共有している冬峰さん。
秘密のユニットを組んでいるという事実を直接口にすることはできないが、その言葉の端々からは「あなたが知らない彼の本当の姿を、私はすべて知っている」という絶対的な自信が滲み出ている。
「それ……どういう意味?」
花穂が僕の腕を抱いていた手を離し、警戒心を露わにして身を乗り出した。
「言葉通りの意味よ。……わからないなら、私が教えてあげるわ。基礎問題なら私でも教えられるもの」
バチバチと、目に見えない火花がテーブルの上で散っているのがはっきりと見えた。
過去という時間で縛ろうとする太陽の幼馴染と、現在進行形の秘密の共有で独占しようとする氷の令嬢。
二人の強烈な個性の間に挟まれ、僕の胃の奥がキリキリと痛み始める。
このままでは、勉強会どころか血を見る修羅場に発展しかねない。
助けて……結城さん。
「……ふぅ。少し休憩にしましょうか」
見かねた結城さんが、わざとらしく大きなため息を吐いて立ち上がった。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




