第35話 誰よりずっと輝く君を
「ふふっ。嬉しい。……ねえ、灰原くん」
冬峰さんは僕の腰から片手を離し、自分のニットのポケットをごそごそと探り始めた。
そして、手のひらに乗せて差し出してきたのは、サービスエリアで買ったシルバーの星型ストラップだった。
「これ。早速、私のスマホケースにつけたの。……あなたのは?」
「え? あ、ちょっと待って」
僕は慌てて机の引き出しを開け、先ほどしまったばかりのブロンズの星型ストラップを取り出した。
「まだ出したばっかりだけど」
それを見ると、冬峰さんは満足そうに頷き、僕の手に自分の手を重ねてきた。
「……この星は、私たちが繋がっている証。北極星の光が、ずっと私たちを導いてくれるように」
「うん。……才能のない僕を、君と結城さんが見つけてくれた大切な証拠だからね」
「才能がないなんて、もう言わせないわよ」
冬峰さんは少しだけ怒ったように僕の鼻の頭を軽くつつき、そして再び優しく微笑んだ。
「あなたの作る曲は、世界で一番美しい。私が保証するわ」
冬峰さんの音楽に対する異常なほどの情熱が、甘い雰囲気の中に鋭く差し込んでくる。
僕は深く頷き、キャスター付きの椅子を引き寄せてパソコンの前に座った。
冬峰さんも自分の椅子を持ってきて、僕のすぐ隣にぴったりと身を寄せて座る。
肩と肩が触れ合う距離。
林間学校のバスの中や、図書室での打ち合わせの時と同じ、だけど今は誰の目も気にする必要のない、僕たちだけの聖域だ。
「……じゃあ、前回の続きからだね。ボーカルと歪んだギターをぶつかり合わせるアレンジ、少しだけ低音のイコライザーをいじってみたんだ」
「ええ、聴かせて」
僕がマウスを操作して再生ボタンを押すと、スピーカーから激しく痛切なイントロが流れ始めた。
そして、冬峰さんの地声で張り上げるようなボーカルが重なる。
不器用で、焦燥感に満ちていて、それでも誰かに見つけてほしくて泣き叫んでいるような音。
僕がゴミ箱に捨てた過去の残骸が、彼女の圧倒的な才能によって鮮やかな命を吹き込まれ、部屋の空気を震わせている。
「……どうかな。低音の厚みを増したことで、君の声がさらに前に押し出されるようになったと思うんだけど」
僕が尋ねると、冬峰さんは目を閉じたまま、深く息を吐き出した。
「完璧よ。……すごくヒリヒリして、痛い。でも、これ以上ないくらい最高だわ」
「良かった。君の要望通り、綺麗にまとめるんじゃなくて、感情の衝突をそのまま音にしたんだ」
「ふふっ、さすがね」
冬峰さんは目を開けると、そのまま僕の肩にこてんと頭を乗せてきた。
「ちょっ……冬峰さん、作業中だぞ」
「いいじゃない。別に手は塞がっていないでしょ? こうしていると、あなたの音がもっと近くで感じられるの」
「勝手にしてくれ……」
「そうさせてもらうわ」
冬峰さんの甘い声と、肩から伝わる柔らかな感触に、僕は抵抗するのを完全に諦めた。
もう、冬峰さんの引力には絶対に逆らえない。
しばらくの間、僕たちは無言でパソコンから流れる僕たちの『音楽』に身を委ねていた。
やがて曲が終わり、部屋に深い静寂が戻る。
「……ねえ、灰原くん」
「なに?」
冬峰さんは僕の肩からゆっくりと頭を離し、キャスター付きの椅子を僕の方へと寄せてきた。
そして、僕の真正面に座り直すと、潤んだ大きな瞳で、真っ直ぐに僕の瞳を見つめてきた。
「林間学校の星空の下で、あなたが言ってくれた言葉、覚えているかしら」
「……どの言葉?」
「私の歌声がないと曲が作れない体に……って言ってくれたことよ」
「ああ」
冬峰さんはふわりと美しく微笑み、両手で僕の右手をそっと包み込んだ。
彼女のひんやりとした細い指先が、僕の掌を優しくなぞるように触れる。
「私、あの言葉が本当に嬉しかった。……あなたが私を必要としてくれているのが、痛いほど伝わってきたから」
冬峰さんの甘い声が、防音パネルに覆われた密室の空気をさらに濃密に染め上げていく。
「だからね、私からあなたに、特別なお礼と……罰をあげようと思って」
「罰……?」
「あんなことを言った次の日に、別の女の子から『あ~ん』なんてされた朴念仁の灰原くんへの罰よ」
「んな、殺生な」
「いいから。……目を閉じて」
冬峰さんの甘すぎる命令に逆らうことなんてできるはずもなく、僕は言われるがまま、ゆっくりと目を閉じた。
視覚が遮断されたことで、他の感覚が異常なほどに研ぎ澄まされていく。
防音室の無音の世界の中で、衣擦れの音がひどく生々しく響いた。
冬峰さんが椅子から立ち上がり、一歩、僕へと近づく気配。
フワッと、柑橘系とフローラルが混ざり合った、彼女の甘いシャンプーの香りが僕の鼻腔をくすぐった。
「……冬峰、さん?」
「ダメ、開けちゃダメよ」
頭の上から降ってきたその囁きは、ゾクッとするほど甘く、そして微かに震えていた。
直後、僕の膝の上に、柔らかな重みがそっと乗せられた。
えっ?
混乱する僕の肩に、彼女の両腕がゆっくりと回される。
なんと、冬峰さんは椅子に座っている僕の膝の上に、跨るようにして密着してきたのだ。
「ちょっ……⁉ 冬峰さん、これ……」
「シーッ。……大人しくしてて」
冬峰さんのひんやりとした滑らかな指先が、僕の首筋からうなじへと回り込み、優しくなぞるように這っていく。
ただでさえ密着しているのに、そこからさらに距離が縮まり、熱い体温が僕の胸元に直接伝わってきた。
ドクン、ドクン、ドクン。
重なり合った胸から、狂おしいほどに速い心臓の音が伝わってくる。
僕のものか、彼女のものか、もはや区別がつかない。
彼女自身も、自分のあまりにも大胆な行動に極度の緊張を覚えているのだろう。
僕の首の後ろに回された手は、微かにプルプルと震えていた。
「灰原くん……」
僕の頬を、彼女の熱く湿った吐息が優しく撫でた。
顔が近い。
唇と唇の距離が、もう数センチもないことが気配でわかる。
「私、ずっと……こうして触れたかった……」
震える声が耳元を掠め、僕の全身に甘い痺れが走る。
見えないからこそ、次に何が起こるのかという期待と焦燥感が際限なく膨れ上がっていく。
冬峰さんの髪の毛先が僕の頬をくすぐり、ふわりとした柔らかいものが僕の唇の端に微かに触れた。
「冬峰……さん」
「……本当に、しちゃうからね」
甘く、切実な宣告。
僕はもう完全に理性を手放し、冬峰さんのすべてを受け入れようと顎を少しだけ上げた。
距離がゼロになる。
柔らかく温かいものが、僕の唇に触れる、まさにその瞬間だった。
ガチャァッ‼
「お兄ちゃん! 凛お義姉ちゃん! 麦茶とクッキー持ってきたよーっ!」
ノックの音すらなく、勢いよく部屋の扉が開け放たれた。
「ひゃああっ⁉」
「うぉぉっ⁉」
僕と冬峰さんは、バネ仕掛けのおもちゃのように弾かれたように飛び退いた。
僕はキャスター付きの椅子ごと後ろに下がりすぎて机に背中を強打し、冬峰さんは顔を茹でダコのように真っ赤にして両手で口元を覆い隠している。
「あでっ‼」
入り口には、お盆を持った妹が、目を点にして立っていた。
しかし、すぐに部屋のただならぬ空気を察したのか、妹の顔にニヤニヤとした意地悪な笑みが浮かび上がる。
「あーっ! ごめんごめん! 私、すっごくお邪魔だったみたいだね⁉」
「ち、違う! これはその……文化祭の出し物の、ええと……」
「寸劇の練習⁉ 『ロミオとジュリエット』とか⁉」
「そ、そうよ! 演技の練習をしていたの‼」
「そうそう‼」
普段は冷静沈着な冬峰さんが、完全にテンパって裏返った声で僕の苦しい言い訳に便乗している。
その必死な姿が、余計に怪しさを際立たせてしまっていた。
「ふふふーん、なるほどねぇ。演技の練習ねぇ」
「やかましい! 出てけ!」
妹はお盆を部屋の小さなテーブルにコトンと置くと、僕に向かってこれ見よがしにウィンクをして見せた。
「じゃ、私は一階に戻るから! あとは若いお二人で、ご・ゆ・っ・く・り! お兄ちゃん、今度はちゃんと鍵閉めなよー!」
バタン、と扉が閉まる。
妹の足音が階段を降りていくのが聞こえ、部屋に再び沈黙が訪れた。
先ほどまでの甘い空気は吹き飛び、代わりにどうしようもない気まずさが充満している。
「……見られたわね」
「見られたな」
「……」
「……ごめん。あいつ、本当にノックとかしないから」
僕が頭を抱えて謝ると、冬峰さんは顔を真っ赤にしたまま、ふっと肩の力を抜いてクスクスと笑い始めた。
僕はドア前に立って、鍵を再度確認する。
鍵をかけたはずなんだけどな……壊れたか?
「油断ならない妹さんね。……心臓が止まるかと思ったわ」
「僕だって寿命が縮んだよ。本当に、何をされるのかと……」
「あら? 何をされるか、期待してた顔だったじゃない」
冬峰さんは悪戯っぽく微笑み、再び僕の方へと身を乗り出してきた。
まだ顔は赤いものの、彼女の瞳には先ほどの熱がしっかりと残っている。
「……ねえ、さっきの続き、する?」
「し、しない! 今は絶対に無理だ! またいつ乱入してくるかわからないだろ‼」
僕が慌てて後ろに引くと、冬峰さんは少しだけ残念そうに唇を尖らせた。
「仕方ないわね。じゃあ……この続きは、この曲が完成して、私たちが次の目標を達成した時の、お預けにしておくわ」
「……なんでそうなる」
冬峰さんは満足そうに微笑み、再びパソコンの画面へと視線を向けた。
夜の静寂に包まれた空間で、僕たちはただ静かに、冷めやらぬ互いの体温と重なり合う音の波に身を委ねていた。




