第34話 甘い理想に落ちる
静かな自分の部屋に戻り、ボストンバッグを床に置いた瞬間、ポケットの中でスマートフォンが短く振動した。
画面をこっそりと確認すると、そこには冬峰さんからのメッセージ。
『フユ:早く、行きたいわ。今日の夜、楽しみにしてる』
『タラ:え、来るの?』
『フユ:当たり前じゃない。約束したんだから』
『タラ:そんな無理して来なくても……』
『フユ:行くの!』
『タラ:わ、分かったから』
二泊三日の林間学校を終え、心身ともに疲労困憊のはずなのに、冬峰さんのメッセージ一つで僕の心臓は再びうるさい不協和音を奏で始める。
学校という空間で抑え込まれていた感情が、今まさに爆発寸前になっているのがわかる。
「……とりあえず、片付けとシャワーを済ませておかないとな」
僕は自分に言い聞かせるように呟き、ボストンバッグのジッパーを開けた。
中から取り出した荷物を整理しながら、サービスエリアで買った妹へのお土産と、そして三人でお揃いにしたブロンズの星型ストラップを机の引き出しにそっとしまった。
シルバーは冬峰さん、ゴールドは結城さん、そしてブロンズは僕。
才能のない僕を救い出し、ユニットの仲間として認めてくれた二人との絆の証だ。
荷解きを終え、夕食とシャワーを済ませた頃には、すっかり外は暗くなっていた。
時計の針が午後八時を回った頃、一階から玄関のチャイムが鳴り響いた。
「はーい! 私が出るー!」
妹の元気な声が聞こえ、ドタドタと廊下を走る足音がする。
「あ‼ 待て‼」
しまった、僕が先に出るべきだった。
慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け下りると、玄関ではすでに妹が扉を開けていた。
「あ、凛さん! こんばんはー!」
「ええ、こんばんは。お邪魔するわね」
遅かった……
玄関に立っていたのは、少し大きめの白いニットに身を包んだ冬峰さんだった。
学校での無骨な黒縁眼鏡は外されており、艶やかな黒髪が夜風にふわりと揺れている。
林間学校の疲れなど微塵も感じさせない、圧倒的な美貌。
「お兄ちゃーん! お客さんだよー!」
「知ってるよ……」
妹は階段を降りかけていた僕を見つけると、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべた。
「ふふふ……林間学校から帰ってきたばっかりなのに、こんな夜に家に来るなんて。また文化祭の出し物の準備ですかぁー?」
「ばっ、お前な……!」
「怪しいなぁ。いくら文化祭の準備だからって、林間学校から帰ってきてすぐにわざわざお家に来るなんて、よっぽどお兄ちゃんと一緒にいたいんだねー!」
妹は僕の焦る様子を見てさらに調子に乗り、冬峰さんの方へと顔を向けた。
「それともー、出し物の準備ってのはただの建前で、ホントは夜のデートだったりして! ねっ、凛お義姉ちゃん!」
「お義姉ちゃんって呼ぶな! ごめん冬峰さん、こいつ適当なことばっかり言うから……」
僕が慌てて妹の首根っこを掴んで後ろに下げようとした、その時だった。
「……ふふっ。そうね。出し物の準備もするけれど、デートみたいなものかもしれないわね」
「ひゃーっ‼」
冬峰さんがほんのりと頬を桜色に染めながら、悪戯っぽく微笑んで肯定してしまったのだ。
妹は目を丸くした後、大興奮でバンバンと僕の背中を叩いてきた。
「言った! 今、デートって言ったよ! お兄ちゃん、ただの準備じゃなかったんじゃん! 隅に置けないねぇ!」
「だから冬峰さんも変に乗っからないでくれ! 話がややこしくなるだろ!」
「あら、私は本当のことを言ったまでよ?」
「勘弁して……」
冬峰さんは涼しい顔で僕を見つめ、小首を傾げてみせる。
妹はすっかり上機嫌になり、「ゆっくりしていってくださいね、お義姉ちゃん! 麦茶とお菓子、後でお部屋に持っていくから!」と叫びながらリビングへと消えていった。
僕は顔を覆い隠すように誰にも聞こえないようにつぶやいた。
「もう……勘弁してくれよ」
「ふふっ、元気な妹さんで羨ましいわ。……さあ、早くあなたの部屋に行こ?」
玄関の騒ぎを後にして、僕は逃げるように冬峰さんを連れて二階の自室へと向かった。
ガチャリと扉を閉め、部屋に二人きりになる。
防音パネルが敷き詰められた第一スタジオは、外の喧騒を完全に遮断し、濃密な静寂を作り出していた。
部屋に足を踏み入れた途端、冬峰さんはふうっと深く息を吐き出し、僕のベッドの端に腰を下ろした。
「……やっと、二人きりになれたわ」
「お疲れ様。林間学校の実行委員、色々と大変だったろ」
「全然。ただ、あなたが他の女子と楽しそうにしているのを見ているのが、一番疲れたわ」
冬峰さんは少しだけ口を尖らせ、拗ねたような声で言った。
「見てたの?」
「相手が日向さんだから許したわ」
「いや……あれは不可抗力というか……何と言いますか……」
僕が苦笑しながら弁明しようとすると、冬峰さんは立ち上がり、ゆっくりと僕の方へと近づいてきた。
一歩、また一歩。
彼女の甘いシャンプーの香りが、部屋の空気を満たしていく。
僕は後ずさりしようとしたが、背中がパソコンデスクにぶつかり、逃げ場を失ってしまった。
背中が痛い。
「冬峰、さん……?」
彼女は僕の目の前で立ち止まると、スッと両手を伸ばし、僕の腰に腕を回してギュッと抱きついてきた。
「っ⁉」
「……学校では、ずっと我慢してたの。ルールは守ったし、実行委員の仕事中だって、なるべく普通を装ってた。……だから、この部屋では、私の好きにさせて」
胸元に顔を押し付けられ、冬峰さんの柔らかな体温が直接伝わってくる。
「冬峰さん……あの、ちょっと近すぎるんじゃ……」
「近いのがいいの。あなたの心臓の音が聞こえるくらい、くっついていたいわ」
冬峰さんは僕の胸にすりすりと頬を擦り付け、さらに強く抱きしめてくる。
一瞬でドロドロに溶けきった冬峰さんの激甘な全肯定モードに、僕の理性は完全にショート寸前だった。
「……あの時の夜、思い出しちゃうわね」
冬峰さんが、僕の胸元から微かに震える声で囁いた。
霧の森で彼女の胸に手を当てられ、あの狂おしいほどの心拍を感じた夜。
「忘れるわけないだろ。君の心臓の音、すごく速かったのを覚えてる」
「今だって速いわよ。あなたに触れているだけで、自分が自分じゃないみたいになるの。……灰原くんの心臓も、すごくうるさいわね」
「そりゃ、こんなに急にくっつかれたら誰だってそうなるだろ」
「誰だって、じゃ嫌。私にだけ、こういう反応をしてほしいの」
冬峰さんは僕の胸から少しだけ顔を上げ、潤んだ大きな瞳で僕を見つめてきた。
その瞳の奥には、隠しきれない独占欲と、僕に対する重たいほどの愛情が渦巻いている。
「僕にとって、こんなに特別で……心臓に悪いのは、君だけだから」
だから居心地が悪い。
僕が素直に降参してそう告げると、冬峰さんはぱぁっと花が咲いたような美しい笑顔を見せた。




