第31話 不安だけど確かなゴール
二泊三日の林間学校も、いよいよ最終日の朝を迎えた。
どんよりとしていた初日の空とは打って変わり、山の向こうからは眩しいほどの朝日が差し込んでいる。
しかし、僕の頭の中は朝の爽やかさとは無縁の、心地よい疲労と熱に浮かされていた。
昨夜の天体観測での出来事。
満天の星の下で、僕の左手は氷の令嬢と呼ばれる冬峰さんの胸元に押し当てられ、その狂おしいほどの心臓の鼓動を直接感じた。
『私の心臓も、私の歌も、全部あなたのものなんだから』
あの甘く、重たい言葉が、今も脳内でループ再生され続けている。
おかげで僕はほとんど一睡もできず、目の下にはうっすらとクマができてしまっていた。
眠い……
洗面所の冷たい水で顔を洗い、なんとか気合を入れて退所に向けての清掃活動に合流する。
実行委員である僕と冬峰さんは、割り当てられた清掃区域のチェックと、忘れ物がないかの見回りを行うことになっていた。
他の生徒たちがほうきや雑巾を持ってバタバタと動き回る中、僕たちはバインダーを手にして廊下を歩いていた。
冬峰さんは相変わらず無表情で、周囲の生徒からは『氷の令嬢』として恐れられている。
その表情から『サボるな』とでもいいそうな顔だった。
しかし、誰もいない廊下の角を曲がった瞬間、彼女は僕のジャージの袖をきゅっと引っ張った。
「……おはよう、灰原くん。随分と眠そうな顔をしているわね」
「おはよう。……誰のせいだと思っているんだ」
「ふふっ。私の心臓の音を思い出して、眠れなくなっちゃったのかしら?」
悪戯っぽく微笑みながら上目遣いで覗き込んでくる冬峰さんに、僕は言葉に詰まる。
図星だからだ。
「……それについては、否定はしないよ」
「素直な灰原くんもいい。……私も、昨日はあなたの温もりがずっと手に残っていて、なかなか寝付けなかったわ。でも、すごく幸せだった」
冬峰さんはほんの少しだけ頬を染め、僕の袖を掴んだ手にきゅっと力を込めた。
「早く、あなたの部屋に帰りたい」
その言葉には、隠しきれない情熱と、僕への強烈な独占欲が滲み出ている。
「その言い方は語弊があると思うぞ」
「あら、本心よ。音楽をやりたいという気持ちに嘘はないわ」
音楽だよな! そうだよな‼
冬峰さん……さては、分かってて言っていたな。
「帰ったらすぐだから。……ほら、誰か来るかもしれないから、離れて」
「ケチ。……まあいいわ。帰ってからの楽しみにしておく」
冬峰さんはスッと手を離し、再び冷たい無表情の仮面を被って歩き出した。
その切り替えの早さに呆れつつも、僕の心臓はまたしても早鐘を打っていた。
午前中の清掃活動が終わり、荷物をまとめた生徒たちが体育館に集められた。
ここで林間学校の最後のプログラムである、閉校式が行われる。
僕と冬峰さんは、初日と同じようにクラスの列の先頭に立ち、点呼を行った。
「一番、相沢」
「はい!」
「二番、石川」
「はい!」
僕が名前を呼び、冬峰さんが瞬時に名簿にチェックを入れる。
三日目ともなると、僕たちの連携はさらに洗練され、もはや一つの生き物のように完璧なシンクロを見せていた。
周囲のクラスメイトたちも、最初は驚いていたものの、今では呆れと感嘆が入り混じった視線を向けてきている。
なんだか、その視線が妙に変になった。
「……んだよ?」
「いや? こいつら、またやってるよって思ってな」
「実行委員で一緒になっただけだ。茶化すな」
「へいへい」
周囲からのそんなひそひそ話を僕は一掃した。
「……三十番、渡辺」
「は、はい!」
「はい、灰原くん。全員揃っているわ」
冬峰さんからバインダーを受け取り、僕は小さく頷いた。
「先生、全員揃いました。欠席、体調不良者はいません」
「おお、ご苦労だったな。お前たち二人が実行委員で本当に助かったよ」
担任の教師が満足げに頷くのを見て、僕は胸をなでおろした。
「そりゃどうも」
これで、実行委員としての大きな仕事はすべて終わった。
閉校式では、施設の人への感謝の言葉や、今後の学校生活に向けた訓話などが語られ、非日常だった林間学校が少しずつ幕を閉じようとしているのを感じた。




