第30話 なんだか今日は絶好調
暗闇の中で、冬峰さんの細く冷たい指先が、僕の左手へとそっと伸びてきた。
昼間の森の中で交わした、あの熱い密着の記憶が再び蘇る。
冬峰さんの指が僕の指の間にゆっくりと滑り込み、隙間を埋めるように深く絡み合い、しっかりと握りしめてきた。
冷たい指先と裏腹に、手のひらから伝わってくる熱は火傷しそうなほどに熱い。
――そのまま、僕の左手を、そのままゆっくりと自分の方へと引き寄せた。
「え……冬峰さん⁉」
僕が戸惑う声を上げるのも構わず、冬峰さんは僕の掌を、自分の胸の膨らみ。
――自分の心臓の真上へとぴたりと押し当てたのだ。
「っ⁉」
ジャージの薄い生地越しに、信じられないほど柔らかな感触がダイレクトに伝わってくる。
僕の思考は一瞬で白く飛び、呼吸の仕方すら忘れてしまった。
いくら暗闇とはいえ、ここは学校行事の真っ最中だ。
しかも、相手は学年一の美少女。
そんな冬峰さんの胸元に、今、僕の手が押し当てられている。
その事実があまりにも現実離れしていて、脳の処理がまったく追いつかない。
「ふ、冬峰さん、これ……っ」
慌てて手を引っ込めようとしたが、冬峰さんの両手は僕の左手をがっちりとホールドしていて、びくともしなかった。
「……お願い、逃げないで」
見上げると、星明かりに照らされた冬峰さんの顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
自分がどれほど大胆で恥ずかしいことをしているのか、痛いほど自覚しているのだろう。
潤んだ大きな瞳が激しく揺れていて、僕の手を握る冬峰さんの指先は微かに、けれどはっきりと震えていた。
恥ずかしさで今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、それでも僕を離そうとしない。
僕に自分のすべてを感じてほしいという、冬峰さんの強烈で不器用な執着心が、僕をその場に縫い止めていた。
掌から伝わってくるのは、彼女の柔らかな体温だけではない。
ドクン、ドクン、ドクン。
――狂ったように速く、力強い鼓動。
冬峰さんの心臓が、僕の手のひらの中で爆発しそうなほどの熱量で鳴り響いている。
僕に触れているだけで、彼女はこんなにも緊張して、こんなにも感情を昂らせているのだ。
僕への好意と熱情を、文字通り心臓の音で証明しようとしている。
その事実が、僕の理性を容赦なく崩壊させていく。
僕自身の心臓もまた、冬峰さんの鼓動に共鳴するように、うるさいほどの不協和音を奏で始めていた。
顔が熱い。
喉がカラカラに渇く。
繋がれた手から伝わる鼓動が混ざり合い、どちらの心拍数なのか分からなくなるほどの錯覚に陥った。
「……ねえ。私の音、聞こえる?」
冬峰さんが、微かに震える声で囁いた。
その声はひどく甘く、僕の鼓膜を溶かしてしまいそうだった。
「……うん、聞こえるよ。すごく……速い」
やっとの思いでそれだけを絞り出すと、冬峰さんは恥ずかしさを誤魔化すように、僕の胸元に顔をぐりぐりと押し付けてきた。
「あなたが……私をこんな風にしたのよ」
くぐもった声が、僕のジャージ越しに響く。
「あなたと二人きりになると、心臓がうるさくて、自分が自分じゃないみたいになるの。私、どうかしちゃったみたい……こんな私、変かしら?」
不安げに上目遣いで覗き込んでくる冬峰さんは、あまりにも無防備で、愛おしかった。
変なわけがない。
むしろ、こんな姿を僕にだけ見せてくれる優越感で、どうにかなってしまいそうだ。
「変じゃないよ。……僕だって、今、心臓が爆発しそうなくらいうるさいんだから」
僕の言葉に、冬峰さんは小さく息を呑み、ぱぁっと顔を明るくした。
自分の熱が僕にも伝染していると知って安心したのか、彼女はさらに僕の腕にすり寄り、甘えるように頬を擦り付けてきた。
「もう、他の女の子とあんな風に笑って写真を撮ったりしないで。……私以外の前で、あんなに柔らかい顔を見せないで。あなたの音も、あなたの時間も、全部私だけのものにして」
それは、昼間の森の中で聞いた言葉よりもさらに直接的で、甘く重たい独占欲の塊だった。
僕が花穂に見せた笑顔に嫉妬し、僕のすべてを自分だけのものにしたいと願う、冬峰さんの剥き出しのエゴ。
僕という存在に依存し、僕のすべてを欲しがる冬峰さんの引力は、もはや抗うことなど不可能なほどに強大になっていた。
「……花穂には申し訳ないけどね。ほら、おいで?」
僕は宙に浮いていた右手をゆっくりと下ろし、冬峰さんの華奢な背中をそっと包み込んだ。
そして、左手にきゅっと力を込め、冬峰さんの熱をしっかりと受け止める。
「だって……君の歌声があるから、僕は輝けるんだよ」
僕の言葉を聞いて、冬峰さんは僕の胸の中で満足そうに小さく「ん……」と声を漏らした。
彼女は繋いだ手をさらに強く握り返し、僕の腕に自分の両腕を回して、ぎゅっとしがみついてきた。
僕の胸に押し付けられた冬峰さんの柔らかい感触が、僕の理性を容赦なく削り取っていく。
「……なら、約束よ。終わったら、すぐにあなたの部屋で新しい曲の録音をしましょう。今度は、もっと激しくて、痛くて……私とあなたでしか作れない、最高の曲を」
「ああ……約束する」
「ふふっ……頼もしいわね」
冬峰さんは僕の胸に顔を埋めたまま、くすくすと楽しそうに笑った。
その甘えるような声と仕草は、僕の部屋で見せる、あの冬峰さんそのものだった。
二人きりになった途端、こうして一瞬で溶けて四六時中ベタ甘に甘えてくる。
本当に、ズルいの限度を超えてきている。
「ねえ、灰原くん。もう少しだけ、このままでいてもいいかしら」
「……誰かが来るまでなら」
「ええ。誰かが来ても、離してあげないかもしれないけど」
「それは勘弁してくれ……」
僕が苦笑しながら答えると、冬峰さんはさらに強く僕の体にすり寄ってきた。
星空の下、誰にも見られない秘密の高台で。
広場から聞こえてくる生徒たちの歓声は、まるで遠い別の世界の出来事のように感じられた。
才能の壁に絶望し、一度は音楽を捨てた僕が、今こうして圧倒的な才能を持つ冬峰さんを腕の中に抱きしめ、共に星を見上げている。
見上げる満天の星々よりもずっと近くで、僕たちはただ静かに、互いの体温と鼓動を確かめ合う。
林間学校の二日目の夜は、こうして甘く、そして静かに更けていった。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




