第29話 見えないものを見ようとして
やがて夜の帳が完全に下り、夕食と入浴を終えた午後八時。
林間学校の二日目の夜のプログラムである、天体観測の時間がやってきた。
周囲の街灯や宿泊施設の灯りがすべて落とされ、完全な暗闇となった広場に、生徒たちがクラスごとにレジャーシートを敷いて寝転がっている。
目が暗闇に慣れてくると、空には息を呑むほどの満天の星が広がっていた。
街の明かりに邪魔されない深い山奥だからこそ見える、無数の光の粒。
天の川が淡い光の帯となって夜空を横切り、まるで宇宙の底に沈んでいるかのような、圧倒的で神秘的な星空だった。
僕と冬峰さんは実行委員として、生徒たちの安全確認や誘導を行うため、広場から少し離れた小高い丘の上に立っていた。
周囲には誰もいない。
聞こえるのは、遠くで星を見上げてはしゃぐ生徒たちの微かな歓声と、草むらで鳴く秋の虫の音だけだ。
六月の山の夜は思いのほか冷え込み、半袖のジャージのままでは少し肌寒く感じる。
しかし、僕の体は内側から妙な熱を帯びていて、その冷たい空気を心地よいとすら感じていた。
理由は明白だ。
今日の昼間、霧が立ち込める深い森の中で、僕は冬峰さんの本音を知り、そして……。
冬峰さんの細く冷たい指先が僕の指の間に滑り込んできた感触や、胸元から伝わってきた力強い鼓動のリズムが、今も右手に、そして脳裏に鮮明に焼き付いている。
あんな強烈な体験をしておいて、今さら平常心を保てるはずがない。
「……綺麗ね」
隣に立つ冬峰さんが、星空を見上げてポツリと呟いた。
夜の冷気に少しだけ肩をすくめながらも、その横顔は無数の星の光を反射して、息を呑むほどに美しく輝いていた。
正直、冬峰さんの方が綺麗だ。
風が吹き抜けるたび、冬峰さんの艶やかな黒髪がふわりと揺れ、僕の鼻腔を甘いシャンプーの香りがくすぐっていく。
「ああ、すごいな。こんなにたくさんの星、初めて見たかもしれない」
僕が努めて平坦な声で答えると、冬峰さんは星空から視線を外し、ゆっくりと僕の方へと顔を向けた。
「そうね。……でも、少し寒いわ」
冬峰さんはそう言うと、一歩、また一歩と僕の方へすり寄るように距離を詰めてきた。
肩と肩が触れ合う距離。
制服のジャージ越しに、冬峰さんの柔らかな体温が直接伝わってくる。
「ふ、冬峰さん……いくら暗いとはいえ、遠くから誰かが見てるかもしれないぞ……?」
僕が慌てて周囲を見回しながら小声で忠告すると、冬峰さんは悪戯っぽくふふっと笑った。
「見えないわよ。こんなに暗いし、みんな星空に夢中だもの。それに、ここは実行委員の特権で人が来ない場所でしょう?」
冬峰さんは全く悪びれる様子もなく、さらに僕に身を寄せ、あろうことか僕の肩にこてんと自分の頭を乗せてきた。
ズキン、と心臓が大きな音を立てて跳ね上がる。
首筋にかかる彼女の温かい吐息。
耳元で聞こえる規則正しい呼吸音。
昼間の森の中での密着がフラッシュバックし、僕の理性は一瞬でショート寸前に追い込まれた。
「……君は、本当にズルいな」
「灰原くんの隣にいる時だけよ。……それに、あなただって昼間は何も嫌がらなかったじゃない」
上目遣いで覗き込んでくる冬峰さんの瞳には、僕をからかうような余裕と、同時に隠しきれない強い独占欲が浮かんでいた。
嫌なわけがない。
ただ、このままだと僕の心臓が持たないと言っているだけだ。
「……ねえ、灰原くん。あそこ、見えるかしら」
「ん……?」
不意に、冬峰さんが僕の肩に頭を乗せたまま、夜空の一点を指差した。
彼女の白く細い指の先を追うと、カシオペア座と北斗七星の間に位置する、他の星々がゆっくりと空を巡る中で決して動くことのない、孤高で強い輝きを放つ星があった。
「あの、ひときわ明るい星。……北極星よ」
「北極星……か。僕たちのユニット名みたいだね」
「ええ。北極星の光に導かれて、世界中に響き渡る残響。……私たちにぴったりの名前でしょ?」
冬峰さんは星空を見上げたまま、優しく微笑んだ。
思えば、僕が旧音楽室で彼女の歌声に出会った日、彼女自身が提案してくれた名前だ。
あの時、僕たちは互いの欠落を埋め合うための秘密の同盟を結んだ。
「あの時、君は僕を導くって言ってくれたよね」
「言ったわ。そして、実際にそうなっていると思わない?」
冬峰さんは僕の肩から少しだけ頭を離し、真正面から僕の目を見つめてきた。
星明かりの下でもはっきりとわかる、彼女の瞳の奥に燃えるような強い光。
「あの臆病な灰原くんを、私が無理やり引きずり出してあげたんだから。……感謝してほしいくらいよ」
「……ぐうの音も出ないよ。本当に、君のおかげで僕はまた曲を作れるようになった。君の歌声という北極星が僕を導いてくれたんだ」
僕が素直に負けを認め、心からの感謝を伝えると、冬峰さんはなぜか少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「違うわ、灰原くん。あなた、まだ全然わかってない」
「え?」
「私にとっての北極星は、あなたの方なのよ」
冬峰さんはそう言うと、再び僕へと近づき、今度は僕の胸元に顔を押し付けるようにして抱きついてきた。
突然の抱擁に、僕は両手を宙に浮かせたまま完全にフリーズしてしまった。
華奢な彼女の体が僕の腕の中にすっぽりと収まり、ジャージ越しに彼女の熱い体温が全身に伝わってくる。
「私の声は、誰にも届かない、空っぽな音だったわ。でも、あなたの作った旋律が、私に歌う理由と方向を教えてくれたの。……あなたの音がなければ、私は今でもずっと、一人で迷子のままだった」
冬峰さんの声は微かに震えていた。
「冬峰……さん」
ああ……好きだ。
好きだ、冬峰さん。
孤高の氷の令嬢としてのプライドなどすべて投げ捨てて、ただ僕という存在に縋り付くような、切実で脆い響き。
「だから……私だけの星でいてね。ずっと、私を導いてね?」
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




