第27話 君に見せたいの彼方の景色を
二日目の朝は、前日の熱気を冷ますような、しっとりとした深い霧に包まれて幕を開けた。
山の空気は冷たく、吐く息がうっすらと白く染まる。
広場で花穂と写真を撮っていた時に背景に写り込んでいた冬峰さんの、あの冷徹で底知れない視線。
その後のキャンプファイヤーの間も、彼女は僕に対して必要最低限の業務連絡しか口にせず、見えない氷の壁を分厚く展開していた。
嫌われたかな……
そんなことを考え、ほとんど眠れないまま迎えた朝だったが、不思議と体は軽く、頭の中は異様に冴え渡っていた。
午前九時。
二日目のメインプログラムである『森のオリエンテーリング』が始まった。
クラスの班ごとに地図とコンパスを頼りに森の中を散策し、各所に設けられたチェックポイントを回ってスタンプを集めるという行事だ。
実行委員である僕と冬峰さんは、生徒たちが無事に通過するのを確認し、スタンプを押す係を任されていた。
指定された場所は、宿泊施設から最も離れた森の奥深く。
――第四チェックポイント。
うっそうと茂る木々に遮られ、太陽の光もまばらにしか届かない薄暗い場所だ。
パイプ椅子が二つ並べられただけのその空間には、完全な静寂が広がっていた。
時折、遠くで野鳥が鳴く声や、風が木々を揺らす音が聞こえるだけで、他の生徒の気配は全くない。
天然の密室とも言えるこの空間で、僕たちはただひたすらに、最初の班がやって来るのを待っていた。
「……誰も来ないわね」
ポツリと、隣に座る冬峰さんが呟いた。
その声は、朝の霧よりも冷たく響いた。
「まだ開始から三十分しか経ってないからな。僕たちのチェックポイントは一番奥だし、ここまで来るには時間がかかるだろ」
僕が努めて平坦な声で答えると、冬峰さんは手元のバインダーを見つめたまま、ふっと冷たい息を吐いた。
「そう。……日向さんと一緒なら、もっと楽しく時間が潰せたかもしれないわね」
「嫌味か、ただの幼馴染同士のスキンシップだ」
「嫌味に決まってるじゃない。バスの中であんな淫らなことをしたくせに」
「誰のせいだと思っているのか……」
僕は背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、必死に言葉を探した。
「あれは……花穂が勝手に写真を撮りに来ただけで、僕から誘ったわけじゃないんだ。本当に」
「私には、あんなにリラックスした柔らかい顔、見せてくれない癖に」
「ああ言えばこう言うな。君は」
冬峰さんはパイプ椅子から立ち上がり、ゆっくりと僕の目の前へと歩み寄ってきた。
そして、僕のジャージの胸ぐらをきゅっと両手で掴んだ。
彼女の透き通るような白い肌が、薄暗い森の中で不自然なほどに浮かび上がっている。
その大きな瞳には、隠しきれない不満と嫉妬、そしてうっすらとした涙が渦巻いていた。
「私といる時は、いつも周りの目を気にして、怯えてる。……私と一緒にいるのは、そんなに居心地が悪い?」
「それは思い過ごしだ。君と一緒にいる時間は、僕にとってすごく特別だ」
「だったら……!」
冬峰さんは僕の胸元に顔を押し付け、縋るように抱きついてきた。
突然の出来事に、僕は息を呑み、両手を宙に浮かせたまま固まってしまった。
これは……どうしたらいいのか。
バスの中での寝ぼけた抱擁とは違う、はっきりとした意志を持った密着。
彼女の震える体温が、ジャージ越しに直接伝わってくる。
「私から、あなたの音を奪わないで。日向さんにも、他の誰にも渡したくない。……あなたの隣は、私だけの特等席にして……」
それは、冬峰さんが初めて見せた、あまりにも脆く、純粋で、そして強烈な独占欲の表れだった。
冬峰さんは僕の才能を全肯定しているのではない。
僕の紡ぐ『音』そのものに、彼女自身の存在証明を依存しているのだ。
冬峰さんは本当に不器用だ。
「……君は、どうしてそこまで僕の曲に執着してくれるんだ?」
僕はずっと聞きたかったことを、この静寂の力を借りて口にした。
「僕の曲は、叩かれた作品ばかりだ。君みたいな圧倒的な才能があるならもっと有名な作曲家に曲を書いてもらうことだってできるはずだ。……それなのに、どうして僕だったんだ?」
「……」
僕の問いに、冬峰さんは僕の胸に顔を埋めたまま、しばらく無言でいた。
「……ヤダ」
そしてそれは、かなり考えた末の拒否だった。
「教えてほしい。今後、僕にとっても向き合うべきことだと思うから」
「ヤーーーーーダ」
僕の胸に顔を埋めながら冬峰さんが甘えてくる。
「お願い、冬峰さん」
「……絶対、誰にも言わないって約束できるなら言ってもいい」
そうか、そう来たか。
「分かった。誰にも言わないから」
僕が約束を取り付けた後、冬峰さんは僕の手を離し、ゆっくりと過去を振り返るように呟いた。
「……私はね、昔はこんな風じゃなかったのよ。もっと普通に、誰とでも話せる子供だった」
「ほぅ……意外だな」
どこか感心したような表情を浮かべる僕に対して冬峰さんが怪訝な表情を浮かべる
「何よ? バカにしてるの?」
「別に?︎︎ 冬峰さんにもそんな時期があったとはね……としみじみしていただけさ」
「次、茶々入れたら二度と喋らないから」
「悪かったって」
僕が悪かった。
次からは余計なことを言うのはやめよう。
「中学に入って、栞と友達になった。栞は他県から引っ越してきたばかりで、最初は私が色々教えてあげてたの。でも……栞はすごく器用で、誰からも好かれる性格だったから、すぐにクラスの中心になったわ。逆に私は、不器用で、愛想笑いも下手で……気がついたら、私の周りにいた人たちはみんな、栞の方を向いていた」
冬峰さんの言葉は、ひどく静かで、どこか遠くを向いていた。
僕は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
クラスで一番頼れる結城さんと、孤高の氷の令嬢である冬峰さん。
今の二人の関係からは想像もつかない、過去の不協和音。
「誰も悪くないの。栞は本当に優しくていい子だし、私から親友になったんだから。……でも、私はいつも『栞の隣にいる無口な子』という扱いでしかなくなった」
冬峰さんは自嘲気味に笑った。
「だから、私は自分から壁を作ることにしたの。最初から誰とも関わらなければ、誰かに落胆されることも、自分が惨めな思いをすることもないから。……そうやって心を閉ざしたわ」
冬峰さんの孤独。
それは、僕が音楽を捨てた時の絶望と、どこか似ている気がした。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




