第24話 素直になりたいと願ったジレンマ
肩に感じる柔らかな重みと、一定のリズムで聞こえてくる微かな寝息。
右耳のイヤホンからは、僕の作ったデモ音源が流れ続けているが、僕の意識は完全に隣に座る冬峰さんへと向いていた。
冬峰さんが、今、無防備な顔で僕の肩に頭を乗せて眠っている。
長い睫毛が白い頬に影を落とし、艶やかな黒髪からは甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
こうして見ると……可愛いな。
肩と肩が密着し、体温が制服越しに伝わってくるたびに、僕の心臓は不協和音のようにうるさく鳴り響いていた。
窓の外の景色はいつの間にか街並みから深い山々へと変わり、バスは曲がりくねった山道をゆっくりと登っている。
少し急なカーブに差し掛かり、車体が大きく揺れたその時だった。
「ん……っ」
眠っていた冬峰さんが小さく寝返りを打つように身をよじり、あろうことか、僕の右腕を両手でギュッと抱きしめてきたのだ。
まるで、安心できる抱き枕でも見つけたかのような力強さだった。
「ちょっ……ふゆっ……?」
僕は思わず声を出しかけたが、慌てて口をつぐんだ。
制服の袖越しに、信じられないほど柔らかい感触が僕の腕に押し付けられている。
ただでさえ隣に座っているだけで周囲の男子たちから殺意の籠もった視線を浴びているというのに、もし今のこの密着状態を見られでもしたら、明日から僕は確実に命を狙われるだろう。
「……灰原くん……」
冬峰さんの桜色の唇から、甘くとろけるような寝言が漏れた。
吐息が僕の首筋にかかる。
「あなたの……すき……」
無防備すぎるその言葉に、僕の顔は一瞬で沸騰したように熱くなった。
音だよな! そうだよな!
寝ている間はこんなにも素直に甘えてくるなんて、ズル過ぎる。
「間もなく、目的地に到着します。生徒の皆さんは、忘れ物がないように準備をしてください」
車内に響いたバスガイドのアナウンスで、僕はビクッと肩を揺らした。
クラスメイトたちがガサゴソと荷物をまとめ始め、車内がにわかに騒がしくなる。
そろそろ起こさないと、本当にまずい。
「……冬峰さん。着くよ、起きて」
僕は小声で呼びかけ、冬峰さんの肩を軽く揺さぶった。
「ん……いや……もうちょっと、このままで……」
冬峰さんは目を閉じたまま、むにゃむにゃと呟き、僕の腕にすりすりと頬を擦り付けてきた。
その可愛らしすぎる仕草に、僕の理性は完全にショート寸前だった。
「お、起きろってば!」
焦った僕が少し声を大きくして肩を強めに揺さぶると、冬峰さんはゆっくりと重い瞼を開けた。
数秒間、ぼんやりとした潤んだ瞳で僕の顔を見つめ……やがて、自分が今どんな体勢になっているのかを理解したらしい。
「っ……⁉ ご、ごめんなさい……!」
冬峰さんは顔を真っ赤にして跳ね起き、慌てて僕の腕から離れた。
いつもは見せないような激しく動揺した姿に、僕の心拍数も限界を突破している。
「いや、大丈夫だけど……寝不足なんだろ。無理するなよ」
「あなたの……いや、何でもないわ」
冬峰さんはぷいっとそっぽを向いたが、その耳まで真っ赤に染まっているのは隠しきれていなかった。
しかし、彼女はほんの数秒後に再びちらりと僕の方を向き、上目遣いで僕の顔を覗き込んできた。
「……嫌だった?」
「え?」
「私がくっついて寝てたの……嫌だったかしら?」
不安そうに揺れる瞳で見つめられ、僕は思わず息を呑んだ。
「そういう言い方はズルいと思うぞ」
「一回言ってみたかったのよ。それで? どうだった?」
「い、嫌なわけないだろ。ただ、心臓に悪いから勘弁してほしいだけで……」
「ふふっ。なら、よかったわ」
冬峰さんは満足そうに微笑み、自分の鞄を手に取った。
「何が良かったんだよ」
「別に?」
前方を見ると、結城さんが自分の席からこちらを振り返り、楽しそうに目を細めていた。
きっと今のやり取りも一部始終をバッチリ見られていたに違いない。
背筋に冷たいものを感じながら、僕は到着の準備を始めた。
◇◇◇
バスのステップを降りた瞬間、肌に触れた空気は、街のそれとは全く違う冷たさと湿り気を帯びていた。
深い山々に囲まれたこの宿泊施設は、六月だというのにひんやりとしていて、周囲の森にはうっすらと白い霧が立ち込めている。
非日常という言葉が、これほどしっくりくる場所もないだろう。
「……空気が澄んでるわね。声がよく響きそう」
冬峰さんが誰にも聞こえないような小声で呟く。
先ほどまでの甘えた態度はすっかり鳴りを潜め、彼女はスッと手に持っていたバインダーを開いた。
「さあ、お仕事の時間よ、灰原くん」
広場には、続々とバスから降りてきた生徒たちがクラスごとに列を作り始めている。
「へいへい。分かってますよ」
僕たちはクラスの先頭に立ち、再び息の合った連携で点呼を取り始めた。
「一番、相沢」
「はい!」
僕が名前を呼び、冬峰さんが瞬時に名簿にチェックを入れる。
一切の言葉を交わすことなく流れるような連携に、周囲のクラスメイトたちは、あの誰とも関わろうとしない冬峰さんと僕の息がぴったり合っている事実に、またしてもポカンと口を開けていた。
「マジで、なんであんなに息ぴったりなんだ……?」
「っていうか、さっきバスの中で、二人並んで座ってなかったか?」
「実行委員で一緒になっただけだ。茶化すな」
周囲からのそんなひそひそ話を僕は一掃した。
第一スタジオで何時間も音と呼吸を合わせてきた僕たちにとっては、これくらい造作もないことだった。
入所式が終わり、午後からは林間学校の定番イベントである『飯盒炊飯』という名のカレー作りが始まった。
クラスは六人ずつの班に分けられ、それぞれがかまどの火おこしや食材のカットといった役割を分担していく。
僕と冬峰さん、そして結城さんは同じ班だった。
実行委員である僕たちが同じ班になったのは、もちろん結城さんの暗躍……ではなく、単に名簿順による偶然だと思いたい。
偶然だよな……?
「目が痛い……! 誰か、うちわで扇いでくれ!」
あちこちから煙と怒声が上がる中、僕たちの班は異様なほどの静けさと効率の良さを保っていた。
というのも、冬峰さんが、思いのほか手際よく包丁を扱っていたからだ。
等間隔に美しくカットされていく野菜を見ていると、彼女の不器用さは人間関係に対してのみ発揮されるものなのだと実感する。
「素晴らしい包丁捌きですわ、凛。わたくしは火の番をしていますから、灰原さんはお米の準備をお願いしますね」
結城さんの的確な指示のもと、僕たちの班のカレーは他のどの班よりも早く完成した。
大きな鍋から立ち上る、スパイシーで食欲をそそる香り。
「……ねえ、灰原くん。ちょっと味見してみて」
不意に、隣に立っていた冬峰さんが僕に声をかけてきた。
振り返ると、彼女は自分が味見に使っていたスプーンにカレーをすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ましていた。
そして、そのスプーンを真っ直ぐに僕の口元へと差し出してきたのだ。
「えっ⁉」
「ほら、早く。まだ少し熱いかしら?」
「い、いや、ちょっと待って! それ、冬峰さんが使ってたスプーン……‼」
「それがどうかしたの?」
冬峰さんは全く悪びれる様子もなく、小首を傾げて僕を見つめてくる。
わざとやってるだろ……
周囲の男子生徒たちの視線が、一斉に僕たちに突き刺さったのがわかった。
学年一の美少女からの『あーん』。
しかも、間接キスのおまけ付きだ。
こんなあからさまな甘やかしを公衆の面前でやられたら、僕の身が持たない。
「あー……その、自分でやるから」
「ダメよ。私が食べさせたいの。ほら、あーん」
冬峰さんはさらに一歩僕に近づき、有無を言わさぬプレッシャーを放ってきた。
「わ、分かった」
冬峰さんの頑固さを知っている僕は、これ以上抵抗しても無駄だと悟り、覚悟を決めてスプーンの上のカレーを口に含んだ。
はむ。
熱いルーと、彼女の甘い気配が口の中に広がる。
「……どう?」
「……すごく美味しい。完璧だよ」
「ふふっ、よかったわ」
冬峰さんはぱぁっと花が咲いたような美しい笑顔を見せた。
その瞬間、クラス中の男子からどよめきと殺意が入り混じった声が上がったが、僕にはもうどうすることもできなかった。
「おい、今、冬峰さんが笑ったぞ……!」
「灰原爆発しろ……!」
結城さんが仕組んだバスでの密着を経て、冬峰さんの僕に対する独占欲と甘やかしは、明らかにタガが外れ始めている。




