第23話 息継ぎだってギリギリ
バスの車内は、すでに特有の熱気と興奮に包まれていた。
僕は生徒たちがスムーズに座席につけるよう、通路の真ん中で案内をしていた。
あらかじめくじ引きで決められた座席表通りに、生徒たちが次々と座っていく。
僕の席は、前から三列目の通路側だ。
隣には、クラスでも大人しい部類の男子が座る予定になっている。
そして冬峰さんの席は、ずっと後ろの窓側のはずだった。
「……よし、これで全員乗ったな」
確認を終え、僕が自分の席へと向かおうとした、その時だった。
「灰原さん、少しよろしいですか?」
通路の奥から、結城さんが声をかけてきた。
彼女の後ろには、なぜか少し戸惑った様子のクラスメイトが立っている。
「どうしたの、結城さん?」
「実は、彼女が少し乗り物酔いをしやすい体質でして。後ろの席だと酔ってしまうかもしれません。わたくしが代わってあげたいのですが、あいにくとわたくしの席も後ろの方でして……」
「あ、あの……ごめんなさい。もしよければ、前の方の席と代わってもらえませんか?」
クラスメイトが申し訳なそうに僕を見上げてくる。
「あ、なるほど。そういうことなら、僕の席と代わろうか。僕は後ろでも平気だから」
僕が快諾すると、クラスメイトはぱぁっと顔を明るくした。
「本当ですか⁉ ありがとうございます‼」
「灰原さん、ありがとうございます。助かりましたわ」
結城さんは優雅に微笑み、クラスメイトを僕の席へと案内した。
僕はバインダーを抱えたまま、女子生徒が座るはずだった後ろの席へと向かった。
後ろから三列目。
指定された座席番号を確認し、僕は足を止めた。
そこには、窓の外を眺めている、見慣れた黒髪の少女が座っていた。
――え⁉
僕は一瞬、自分の目を疑った。
なんで、冬峰さんがここに座っているんだ?
彼女の席は、もっと後ろのはずじゃ……いや、待てよ。
僕が唖然として立ち尽くしていると、冬峰さんがゆっくりと顔を向け、僕を見上げた。
その瞳には、隠しきれない悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「……あら、奇遇ね、灰原くん。まさか、隣の席になるなんて」
「君……もしかして、わざと……?」
僕が小声で問い詰めると、冬峰さんはふいっと視線を窓の外に戻した。
「私は何もしていないわ。ただ、栞が気を利かせてくれただけよ」
前方を見ると、結城さんが自分の席からこちらを振り返り、小さくピースサインを送ってきた。
やられた。
乗り物酔いのクラスメイトの話はおそらく本当だろうが、結城さんがその交換先として僕の席をピンポイントで狙い、結果として僕と冬峰さんが隣り合うように仕組んだのだと、この瞬間にすべてを悟った。
あの頼れるクラスメイトの裏の顔は、あまりにも有能で、そして恐ろしい暗躍者だった。
怖い……僕はあの人が怖い。
「……ほら、早く座ったら? バスが発車するわよ」
冬峰さんが少しだけ自分の荷物を寄せて、僕が座るスペースを空けてくれた。
「い、いや……しかし……」
「なんであいつが冬峰さんの隣に……!」
「不可抗力だ。いちいち突っかかるな」
周囲の男子生徒たちからの殺意に満ちた視線が、僕の背中に突き刺さる。
生きた心地がしない。
しかし、もう逃げ場はない。
「ほら、灰原くん」
「……失礼します」
僕は諦めてため息をつき、冬峰さんの隣に腰を下ろした。
座席に深く身を沈めると、隣からふわりと甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
肩と肩が、触れ合うか触れ合わないかのギリギリの距離。
バスが発車する振動と共に、僕の心拍数が跳ね上がるのを感じた。
「……ねえ、灰原くん」
バスがゆっくりと動き出した瞬間、冬峰さんが誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。
「私の隣……嫌?」
「嫌って言ったら嘘になるな」
「灰原くんは素直じゃない、もう少し私に対して素直になるべき」
むーっと膨れた顔を窓の反射で僕にだけ見せてくる冬峰さん。
「だから言っただろ、居心地が悪いって。周りの奴らがチラチラ見てるじゃないか」
「そう? 私はすごく居心地がいいわ。こうやって、堂々とあなたの隣に座れるんだもの。……それに、私たちは実行委員なんだから、打ち合わせをしているだけよ。誰も不自然には思わないわ」
そう言って、冬峰さんはほんの少しだけ僕の方へと体を傾けてきた。
制服の袖越しに、彼女の二の腕の柔らかい感触と体温が伝わってくる。
吐息が首筋にかかるほどの距離に、僕は思わず身を固くした。
「ちょっ……近いって」
「……私が隣にいると、ドキドキして打ち合わせどころじゃないかしら?」
悪戯っぽく微笑みながら上目遣いで覗き込んでくる冬峰さんの瞳には、明らかな独占欲と、僕をからかうような甘い色が浮かんでいた。
「ばっ……! そういうわけじゃ……」
「図星みたいね。……ねえ、灰原くん」
冬峰さんは自分の鞄から有線イヤホンを取り出し、片方を僕の耳にそっと押し込んできた。
冷たい指先が僕の耳たぶに触れ、背筋がビクッと跳ねる。
「な、何するんだよ」
「昨日のデモ音源の続き。やっぱりAメロの入りは、もう少しギターの歪みを抑えたいの。……一緒に聴いて」
「も〜〜〜」
冬峰さんはもう片方のイヤホンを自分の耳に入れ、僕の肩にぴたりと身を寄せてきた。
短いケーブルで繋がれた僕たちは、先ほどよりもさらに密着した状態になる。
「……いくらなんでも、近すぎるだろ」
「離れたらイヤホンが外れちゃうわ。大人しくして」
冬峰さんは僕の抗議をあっさりと退け、スマートフォンを操作して曲を再生し始めた。
僕の作ったあの音が右耳から流れ込んでくる。
しかし、今の僕には、音楽に集中することなど到底不可能だった。
僕の右肩には、冬峰さんの頭がこてんと乗せられている。
黒髪から香る甘い匂いと、微かに聞こえる彼女の穏やかな呼吸音。
「……冬峰さん?」
「少しだけ、眠ってもいいかしら。昨日の夜、あなたの曲をリピートして聴いてたら、全然眠れなくなっちゃって」
寝不足になるから早めに寝ろって言ったのに……
「……わかったよ。着くまで寝てなよ」
「ん……ありがと、灰原くん……」
やがて、冬峰さんの規則正しい寝息が聞こえ始めた。
僕の肩に寄りかかる、学年一の美少女。
その柔らかい感触と、耳から流れてくる不器用なデモ音源のアンバランスさに、僕はどうにかなってしまいそうだった。
窓の外を流れる景色を見つめながら、僕は身動き一つ取れず、ただひたすらに自分の心拍音を数え続けるしかなかった。




