第21話 それでもあなたに見つけてほしい
六月。
梅雨入り前の、どこか湿気を帯びた生ぬるい風が吹き抜ける夜。
僕は自分の部屋。
――通称『第一スタジオ』の床に座り込み、ボストンバッグに荷物を詰めていた。
いよいよ明日から、二泊三日の林間学校が始まる。
ベッドの上に放り出されているのは、結城さんが完璧なフォーマットで作り上げた『林間学校のしおり』だ。
本来なら実行委員である僕と冬峰さんが作るべきものだったが、冬峰さんが結城さんに丸投げしてしまった代物である。
表紙のデザインからタイムスケジュールのレイアウト、持ち物リストの箇条書きに至るまで、プロの動画クリエイターである『ダチA』の洗練されたセンスが遺憾なく発揮されており、もはや市販のガイドブックのようなクオリティに仕上がっている。
クラスで配られた時、担任の教師でさえ「今年の実行委員は気合が入っているな」と驚いていたほどだ。
結城さんには、林間学校から帰ったら何かお礼をしなければならないな……
僕は心の中で深く感謝しながら、しおりの持ち物リストにチェックを入れていった。
◇◇◇
荷造りが一段落し、僕はパソコンの前に座って大きく伸びをした。
モニターには、未完成のままの音楽編集ソフトの画面が開かれている。
明日からの三日間、『Polaris Echo』の活動は完全にストップすることになる。
思えば毎日、少しでも時間があれば冬峰さんの歌声と向き合い、音を重ねてきた日々。
それが三日間も途切れることに、僕自身も少なからず寂しさを感じていた。
まあ、軽い息抜きのようなものでそういうのも必要だろう。
不意に、机の上に置いていたスマートフォンが短く振動した。
画面には、メッセージアプリの着信通知が表示されている。
相手は、もちろん冬峰さん。
『フユ:荷造りは終わった?』
画面に浮かんだ短いメッセージに、僕は苦笑しながら返信を打ち込んだ。
『タラ:今終わったところ。結城さんが作ってくれたしおりのおかげで、忘れ物はなさそうだよ』
すると、すぐに『既読』がつき、数秒後にはメッセージではなく、通話の着信画面に切り替わった。
僕は慌てて通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし」
「こんばんは、灰原くん。ちゃんと準備できたみたいね」
スピーカーから聞こえてきたのは、冬峰さんの少しだけ甘く柔らかい声だった。
「こんばんは、あのなぁ……今何時だと……」
「午後の九時ちょっと前かしら」
「そういうことを聞いてるんじゃない……」
電話越しでも分かるキョトンとした顔の冬峰さんを浮かべながら僕は静かに続ける。
「それよりも。君のほうは大丈夫なのか? お互い実行委員なんだから、明日遅刻したら洒落にならないぞ」
「心配しなくても、準備は完璧よ。……それにしても、明日から三日間も、君の部屋に行けないなんて、少し退屈ね」
電話越しの冬峰さんは、不満そうに小さくため息をついた。
「仕方ないだろ。林間学校は学校行事なんだから。……でも、少し休むのも悪くないと思うよ。耳を休ませてから聴き直すと、また新しいアレンジのアイデアが浮かぶこともあるし」
「そうね……でも、早くあなたの音が聴きたいわ」
冬峰さんの飾らない言葉が、鼓膜を通じて僕の心臓を直接揺さぶってくる。
才能のない僕を、世界で唯一の天才だとずっと言ってくれる彼女の熱。
その熱に触れるたび、僕は自分の身の程を忘れて、彼女に引き寄せられてしまいそうになる。
「……ねえ、灰原くん」
不意に、冬峰さんの声のトーンが一段低くなった。
「なに?」
「明日から、ついに堂々とあなたと話せるのね」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「破ったのはそっちだろうに……」
「実行委員の仕事なら、業務上の会話として誰にも怪しまれずに話せる。……私、それがすごく楽しみなの」
「君なぁ……あんまり露骨に話しかけてきたら、結局、周りに怪しまれるだろ。ほどほどにしてくれよ」
「善処するわ。でも、こればっかりは私にも制御できないかもしれないから、覚悟しておいてね」
「勘弁してくれ……」
僕が頭を抱えていると、電話の向こうから冬峰さんのくすくすと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ。ねえ、明日のバスの席だけど」
「バスの席? あらかじめくじ引きで決まってるだろ。僕は男子の列の前の方だし、君は女子の列の後ろの方だ」
「そうね。……でも、もし隣に座れたら、ずっと話ができるのにね」
「そんなの無理に決まってるだろ。大体、僕と冬峰さんが隣同士で座ってたら、クラス中の視線が集中するだろ」
「臆病ね。私は別に、誰にどう見られても構わないのに」
拗ねたような冬峰さんの声に、僕は苦笑するしかなかった。
「僕が居心地悪いだけだ」
冬峰さんは本当に、音楽のこと以外はどうでもいいと思っている節がある。
その不器用で一途な情熱が、嬉しくもあり、同時に恐ろしくもあるのだ。
「……とにかく、明日は実行委員としてしっかり仕事をこなそう。結城さんに丸投げした分、当日の点呼とか進行は僕たちがやらないといけないんだから」
「わかってるわ。……じゃあ、また明日。おやすみなさい、灰原くん」
「おやすみ、冬峰さん」
通話が切れ、部屋に再び静寂が戻る。
スマートフォンを机に置き、僕は大きく息を吐き出した。
その直後、再びスマートフォンが震えた。
今度はなんだ……って花穂か。
『花穂:明日からいよいよ林間学校だね! 向こうに着いたら一緒に写真撮ろうね! 奏多も遅刻しないように!』
花穂らしい、明るいメッセージをみた僕は少し笑みがこぼれた。
明るいやつめ。
先日、僕が音楽を再開したことを打ち明けた時、花穂は自分のことのように泣いて喜んでくれた。
しかし、その音楽を一緒に作っている相手が、あの冬峰 凛だということは、まだ伏せたままになっている。
『奏多:ああ、気をつけて行こう。写真くらいなら撮るよ』
『花穂:やった! 約束だからね! もし逃げたら、夜に奏多の部屋まで突撃するから!』
『奏多:何する気だよ……』
続けざまに送ってくる花穂からのスタンプを見て、僕は小さく笑みをこぼした。
明日から始まる、非日常の三日間。
不安と期待が入り混じる中、僕はベッドに潜り込んだ。




