第20話 僕にとって正しい声でいる
一方、その頃の図書室。
放課後の図書室は、特有の古い紙の匂いと、静寂に包まれていた。
西日が差し込む窓際の作業用テーブルで、僕と冬峰さんは向かい合って座っていた。
周囲に他の生徒や司書の姿がないことを確認してから、僕は小声で問い詰めた。
「なあ、冬峰さん」
「なにかしら? 灰原くん」
冬峰さんは悪戯っぽく微笑んだ。
夕日差し込む図書室で微笑む冬峰さんは、同年代の僕が直視するには少し眩しすぎるほどに美しい。
「昼間のことだ。……で、本当にくじ引き、当たったのか?」
「これのこと?」
僕が疑いの目を向けると、冬峰さんは制服のポケットから小さく折りたたまれた紙片を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこには、赤い文字など一切書かれていない、ただの白紙が広がっていた。
「当たっているわけないじゃない」
「やっぱり! なんで嘘なんて……」
「だって、栞が先生に止められて、立候補できなくなっちゃったじゃない。タイミングを逃した私のせいもあるけど……」
冬峰さんは少しだけ口を尖らせて、不満そうに言った。
「あそこで私が名乗り出ないと、あなたが私でも栞でもない、他の女子生徒と二人きりで林間学校の実行委員をやることになる。……それが、どうしても嫌だったの」
親友である結城さんになら任せられたが、見ず知らずの女子生徒に僕との時間を譲りたくない。
冬峰さんの言葉の端々に、そんな妙な独占欲が見え隠れしている。
「それに……こうでもしないと、学校であなたと堂々と話せないでしょ?」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「あなたが決めたルールを私はちゃんと守ってたわよ。でも、実行委員の仕事なら、業務上の会話として誰にも怪しまれずに話せるでしょ?」
冬峰さんは悪びれる様子もなく、むしろ名案を思いついたとでも言いたげな誇らしげな顔をしている。
「……ズルいな、冬峰さんは」
「あなたがあまりにも臆病だから、これくらい引っ張ってあげないとダメなのよ。それとも、私が実行委員になって、迷惑だった?」
上目遣いで覗き込んでくる冬峰さんの瞳には、ほんの少しの不安が混じっていた。
迷惑なはずがない。
ただ、冬峰さんと一緒にいると、僕の灰色の日常がどうしようもなく鮮やかに染まりすぎて、元の世界に戻れなくなってしまいそうで怖いのだ。
「迷惑なわけないだろ。ただ、君が目立ちすぎるから心配なだけで……」
「ならいいじゃない」
冬峰さんはふっと表情を緩めると、鞄から自分のノートパソコンを取り出し、実行委員の資料……ではなく、音楽の編集ソフトの画面を立ち上げた。
「ほら、昨日の続き。ボーカルと歪んだギターをぶつかり合わせるアレンジ、やっぱり少しだけ低音の響きを調整したいの」
「ちょっ、ここは図書室だぞ! それに実行委員の仕事をしないと……‼」
「しおりの原案作りなんて、最初からやる気ないわよ」
「だったら誰がやることに……」
「そんなもの最初から栞に頼んでおいたわよ。あの子、こういう事務作業大好きだから」
「結城さんに丸投げかよ……!」
僕は頭を抱えた。
そう言われればそうなのだ。
文化祭とは違って、ある程度の行事が決められている林間学校。
そこでやることと言われれば、クリエーターである結城さんのほうが時間も短縮できる。
「お前……結城さんにいつか恨まれるぞ」
「怖いこと言うわね」
冬峰さんの裏の顔は、音楽のためなら手段を選ばない、とんでもないエゴイストだったのだ。
しかし、冬峰さんがそうまでして僕との時間を作り、僕の作った曲に向き合おうとしてくれている事実は、どうしようもなく僕の心を熱くさせた。
「……ほら、灰原くん。ここのサビの入り方、どう思う?」
冬峰さんが有線イヤホンの片方を僕に差し出してくる。
「ちょっとだけだからな」
僕はため息をつきながらそれを受け取り、自分の右耳に押し込んだ。
冬峰さんはもう片方を自分の左耳に装着している。
短いケーブルで繋がれた僕たちは、自然と肩と肩が触れ合うほどに近い距離で、一つの小さな画面を覗き込む形になった。
再生ボタンが押されると、冬峰さんの透き通るような地声の張り上げが、僕の鼓膜を震わせた。
不器用で、感情を持て余していて、それでも誰かに見つけてほしくて叫んでいるような音。
僕が捨てた音源は、彼女の声と歪んだギターの衝突によって魔法をかけられ、世界で一番痛切な旋律に変わろうとしていた。
「……悪くない。でも、少しだけギターの主張を抑えよう。君の生々しい声が、もっと前に出るように」
「わかったわ。じゃあ、ここのパラメーターをいじってみて」
図書室の片隅で、二人で一つのイヤホンを共有しながら画面を見つめる。
キーボードを操作するために腕を動かすたび、微かに触れ合う肩越しに、冬峰さんの甘いシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。
チラリと横顔を見ると、冬峰さんもまた、画面を見つめながらほんのりと頬を桜色に染めていた。
僕の視線に気づいた冬峰さんは、イヤホンを外すことなく、ほんの少しだけ僕の方へと身を乗り出した。
「何だよ」
「……学校でこうやってあなたと音楽の話ができるの、すごく楽しい」
吐息が混じるほどの至近距離で囁かれた言葉に、僕は呼吸を忘れた。
「も~~~」
周囲から見れば、真面目に実行委員の仕事の打ち合わせをしているようにしか見えないだろう。
まさかこの二人が、ネット上で話題になり始めている正体不明のユニット『Polaris Echo』だなんて、そしてこんなにも甘く密やかな共鳴を響かせているだなんて、誰も想像すらできないはずだ。
僕が頑なに守ろうとしていたルールは、冬峰さんの強引なくじ引きの嘘によって、あっさりと抜け道を作られてしまった。
◇◇◇
翌朝の通学路。
隣を歩く幼馴染の花穂は、あからさまに不機嫌そうなオーラを放っていた。
「ねえ、奏多。聞いたんだけど、冬峰さんと一緒に、林間学校の実行委員やるって本当!?」
花穂が鋭い視線で詰め寄ってくる。
その目には明らかな焦燥感と、隠しきれない不安が浮かんでいた。
「本当だよ。男子のくじ引きで、見事にハズレを引いちゃってさ……不可抗力だ」
「むぅ……怪しい! 絶対何かある‼ 奏多は帰宅部なのに、なんで最近そんなに冬峰さんと関わるのよ! ゴールデンウィークの時だって、文化祭の準備だとか言って、あたしに隠し事してたじゃない!」
花穂はぷくっと頬を膨らませて抗議する。
「だ、だからあれは本当に有志の集まりで……今回の実行委員だって、ただの偶然だって。それに、冬峰さんはクラスでも全然しゃべらないし、実行委員の仕事も基本的には結城さんがサポートしてくれてるから」
「ほんとぉ⁉ 嘘だったらあたし、泣いちゃうからね」
花穂は僕の顔をじっと覗き込んでから、ふいに俯いた。
彼女の胸の奥底に、チクリとした痛みを伴う、得体の知れない嫉妬の炎が小さく芽生え始めているのを、僕は気づかないふりをするしかなかった。
「ホントだって」
「……あたしね、奏多がまた音楽をやりたいって思ってくれるなら、それはすごく嬉しいんだよ。でも、奏多が、あたしの手の届かない、ずっと遠いところに行っちゃいそうな気がして、なんか嫌なの」
花穂がぽつりとこぼしたその弱音に、僕は胸が締め付けられるような罪悪感を覚えた。
「……ごめん。でも、嘘じゃないよ。クラス関係のことだから、花穂にはあまり言えないってだけだ。心配しなくても、僕はどこにも行かないよ」
「絶対だよ? 奏多が遠くに行きそうになったら、あたしが手を引っ張って連れ戻すからね」
「それは助かるな」
花穂は顔を上げ、少しだけ強がったように笑って見せた。
僕は必死に取り繕いながら、心の中で何度も謝った。
ごめん、花穂。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




