第13話 心臓の拍動に抗うように
「お邪魔するわ、灰原くん」
冬峰さんは小さく微笑み、丁寧に靴を揃えて上がってくる。
すれ違いざまに微かに漂う、彼女の甘いシャンプーの香りが僕の鼻腔をくすぐった。
それだけで、僕の心拍数は一気に跳ね上がってしまう。
「……結城さんから連絡はあった? 少し遅れるみたいだけど」
「ええ、栞からメッセージは来てるわ。だから、今日はしばらく二人きりね」
冬峰さんはそう言うと、僕の目を見つめて悪戯っぽくふふっと笑った。
その破壊力たるや、凄まじいものがある。
学年で一番かわいいと誰もが認める冬峰さんの、こんな無防備な笑顔を独り占めしているなんて、もしクラスの男子たちに知られたら、明日から僕は確実に命を狙われるだろう。
僕たちは二階の僕の部屋へと上がり、パソコンの前の椅子に並んで座った。
防音のために窓を閉め切った部屋は、いつもより空気が濃密に感じられる。
微かに聞こえるパソコンの冷却ファンの音だけが、部屋の静寂を際立たせていた。
「……すごいわね、灰原くん。また再生数が伸びてる」
冬峰さんは僕の隣に座り、パソコンのモニターを食い入るように見つめた。
画面に映し出されているのは、僕たちの初投稿動画『Rewrite』のページだ。
何度更新ボタンを押しても、新しいコメントが次々と追加されていく。
『フユさんの歌声、いつ聴いても最高すぎる。でもこの曲だと、感情の乗り方が段違いだな』
『タラの曲、本当に天才。サビで毎回鳥肌立つ』
『ダチAの映像とフユの歌、そしてタラの曲。この三人の相性良すぎてヤバい』
「……本当に、信じられないよ。僕の作った曲が、こんなにたくさんの人に聴いてもらえてるなんて」
僕が震える声で呟くと、冬峰さんは椅子の向きを僕の方へと変え、真っ直ぐに僕の目を見つめてきた。
「信じられないなんて言わないで。灰原くんの曲は本当に素晴らしいのよ。だから、当然の結果だわ」
「でも、君の歌声と結城さんの映像がなかったら、絶対にこんな風にはならなかった。僕一人じゃ、ただの空っぽな音だったんだ」
「違うわ。灰原くん、あなたの音が、私をここまで本気にさせたの」
冬峰さんの言葉は、いつも真っ直ぐで嘘がない。
彼女の強い光を放つ全肯定が、僕の心の奥底にこびりついていた劣等感の塊を、少しずつ、けれど確実に溶かしていくのを感じる。
「冬峰さん……ありがとう」
僕が素直に感謝を伝えると、冬峰さんは少しだけ目を丸くした後、ふいっと視線を逸らした。
彼女の透き通るような白い頬が、ほんのりと赤く染まっているのがわかる。
「べ、別に……本当のことを言っただけよ。それに、私の方こそ感謝してるんだから。灰原くんの曲に出会えたおかげで、私は本当の『フユ』になれたの」
冬峰さんは照れ隠しのようにそう言うと、無理やり話題を変えるようにパソコンの画面を指差した。
「そ、それより、次回作のデモを聴かせてちょうだい‼ 栞が来る前に、どの曲にするか絞り込んでおきたいわ」
「わ、わかった。じゃあ、いくつか候補を流すよ」
僕はマウスを操作し、中学生のころに作り溜めていたボツ曲のフォルダを開いた。
あの日、すべてゴミ箱に捨てたつもりだったが、バックアップ用のハードディスクに奇跡的に残っていたデータたちだ。
かつての僕は、これらの曲を誰にも認められない『ゴミ』だと思っていた。
しかし、今の僕には、冬峰さんという圧倒的なボーカリストがいる。
彼女の歌声さえあれば、この音たちも必ず輝くことができると確信していた。
僕は一つ目のデモ音源を再生した。
アップテンポで、少しだけ攻撃的なギターのリフから始まる曲だ。
「……うん、悪くないわね。でも、少し感情が平坦すぎるかもしれない」
冬峰さんは目を閉じ、真剣な表情で音に耳を傾けている。
「じゃあ、これはどうかな。少しバラード寄りで、メロディの起伏を大きくしてみたやつ」
二つ目のデモ音源を流す。
冬峰さんはしばらく無言で聴き入っていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「これも良い曲だけど……今の私たちが歌うべき曲じゃない気がする。もっとこう、心の奥底から叫びたくなるような、不器用で泥臭い音が欲しいの」
冬峰さんの要求は非常に抽象的だが、不思議と僕には彼女が何を求めているのかが直感的に理解できた。
彼女が求めているのは、綺麗に整えられた優等生のような曲ではない。
才能の壁に絶望し、誰かに見つけてほしくて叫び続けていた、僕の本当の心の叫び。
それを乗せるための器なのだ。
「……だったら、こういうのはどうだろうか」
僕はマウスを操作し、ある一つの音声ファイルをダブルクリックした。
それは、僕が音楽を辞める直前に作った、最も未完成で、最も感情を持て余していた曲だった。
イントロはなく、いきなりサビのメロディから始まる。
不協和音スレスレの不安定なコード進行。
モーツァルトの『レクイエム』をイメージして作曲したので、まるで迷子になった子供が、暗闇の中で泣き叫んでいるような、切実で痛切な旋律。
音が部屋に響き渡った瞬間、冬峰さんの肩がビクッと跳ねた。
「……これ」
冬峰さんは目を見開き、食い入るようにスピーカーを見つめている。
一分ほどの短いデモ音源だったが、時間にして十分以上は食い入るように見ていた。
「どうかな……正直、かなり荒削りで、サビの展開も不器用だから、直すところはたくさんあると思うんだけど」
僕が恐る恐る尋ねると、冬峰さんはゆっくりと僕の方へと顔を向けた。
その瞳は、信じられないほどの熱を帯び、うっすらと涙で潤んでいた。
「……これよ」
「え?」
「この曲よ、灰原くん! 私が求めていたのは、この音だわ‼」
冬峰さんは興奮した様子で身を乗り出し、僕の腕をきゅっと両手で掴んだ。
「このメロディ、すごく痛い。誰かに自分の存在を証明したくて、でもどうすればいいかわからなくて、もがいているような音がする。……これなら、私の全部を乗せられる!」
彼女の強い力で腕を掴まれ、僕は思わず息を呑んだ。
顔が近い。
彼女の透き通るような白い肌が目の前にあり、熱を帯びた吐息が僕の頬を撫でる。
あの『氷の令嬢』と呼ばれる冬峰さんが、今、僕の音に対してだけこんなにも感情を剥き出しにしている。
その事実が、どうしようもなく僕の理性を乱す。
「で、でも、このままだと君のボーカルの音域とサビの高音が少しぶつかるかもしれない。キーを半音下げるか、メロディラインを少し修正した方がいいと思うんだ」
「そうね……でも、キーを下げるとこの曲が持っている切羽詰まった感じが薄れてしまわないかしら? いっそ、私が今のキーのまま、裏声じゃなくて地声で張り上げるように歌うのはどう?」
冬峰さんからの提案に、僕は目を見開いた。
「地声で張り上げる? この高音を?」
そんな無茶なことができるのか。
「ええ。綺麗に歌う必要はないと思うの。少し声がひっくり返っても、掠れてもいい。その方が、この曲の泥臭さが引き立つはずよ」
うーーむ。
なるほど?
僕は頭の中で、冬峰さんの圧倒的な声量でこのメロディが歌われる様を想像してみた。
……鳥肌が立った。
彼女の言う通りだ。
この曲は、綺麗に整えてはいけない。
荒削りな感情を、そのままぶつけるべき曲なのだ。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




