第10話 不安と期待とがアンビバレント
どんよりとした梅雨の気配が少しずつ近づいてくる中、僕たちの秘密のユニット『Polaris Echo』の活動は、ついに一つの大きな節目を迎えようとしていた。
防音設備の整った僕の部屋。
――通称『第一スタジオ』には、いつものように三人の姿があった。
マイクの前に立つのは、少し大きめの白いニットを着た冬峰さんだ。
彼女はヘッドホンを耳に当て、静かに目を閉じて精神を集中させている。
その隣のパソコンの前に座る僕と、背後のソファでノートパソコンを開いて動画の編集作業を進めている結城さん。
「じゃあ、ラストのサビ、もう一回いこうか。感情を出し切る感じでお願い」
「……ええ、わかったわ」
僕の合図で、伴奏のトラックを再生する。
イントロから静かに立ち上がり、徐々に熱を帯びていくメロディ。
かつて『心がない』とネットで叩かれ、僕自身が才能の限界に絶望してゴミ箱に捨てた、あの旋律。
しかし、今のこの曲は、あの頃の空っぽな音とは全く違う。
冬峰さんの圧倒的な歌声が重なることで、見違えるほどの生命力を宿しているのだ。
サビに差し掛かると、冬峰さんが息を大きく吸い込んだ。
そして、爆発させるように声を放つ。
透き通るような高音でありながら、魂の奥底を直接揺さぶるような強く熱い声。
不器用で、感情を持て余していて、それでも誰かに見つけてほしくて叫んでいるような音。
マイクを通して伝わってくる彼女の熱量に、僕は毎回のように圧倒され、全身に鳥肌が立つのを感じていた。
学校では『氷の令嬢』として誰とも関わろうとしない彼女が、マイクの前でだけは、こんなにもむき出しの感情をぶつけてくる。
そのギャップが、僕の紡いだ音に強烈な引力を生み出していた。
「――っ」
最後のフレーズを歌い終え、冬峰さんがゆっくりと目を開ける。
部屋の中に深い余韻が残り、完全な静寂が訪れた。
「……どうかしら、灰原くん」
ヘッドホンを外した冬峰さんが、少しだけ不安そうに僕を見る。
僕は大きく深呼吸をして、震える声で答えた。
「完璧だ。……今までで一番、感情が乗ってた。最高だよ、冬峰さん」
僕が親指を立てると、冬峰さんの顔にぱぁっと花が咲いたような美しい笑みが広がった。
学校で見せる冷たい表情など微塵もない、年相応の純粋な喜びの表情だった。
「良かった……私、この曲を歌っていると、本当に自分が自分になれる気がするの」
「お疲れ様です、凛。素晴らしいテイクでしたよ」
ソファから結城さんが立ち上がり、労いの言葉をかける。
「さて、ボーカルの録音はこれで完了ですね。灰原さん、ミックスダウンの方はいつ頃に仕上がりますか?」
「今日の夜には終わらせるよ。明日が日曜日だから、明日の夕方には動画と合わせて最終確認ができると思う」
「承知しました。わたくしの方のMVも、それに合わせて完成させます。いよいよですね……『Polaris Echo』の初投稿」
結城さんの言葉に、部屋の空気がピンと張り詰めた。
いよいよ、この曲を世界に向けて放つ時が来たのだ。
その日の夜から翌日の昼にかけて、僕は文字通り寝る間も惜しんでパソコンの画面と睨めっこをしていた。
冬峰さんの歌声を最大限に活かすためのミックス作業。
イコライザーで帯域を調整し、コンプレッサーで音圧を整え、リバーブで空間の広がりを演出する。
彼女の繊細な息遣いや、サビでの感情の爆発がリスナーの耳に最も心地よく、そして鋭く突き刺さるように、一音一音を丁寧に磨き上げていく。
かつての僕は、一人で部屋に引きこもり、誰とも感情を共有することなく、ただ機械的に音を並べていただけだった。
だから『心がない』と言われたのだろう。
けれど、今は違う。
僕の作った不格好な器の中には、冬峰さんという圧倒的な熱源が存在している。
彼女の熱をどうやって外に伝えるか、それだけを考えて音を紡ぐ作業は、信じられないほど楽しくて、同時に恐ろしくもあった。
◇◇◇
翌日の日曜日、夕方。
再び僕の部屋に集まった三人は、完成した一つの動画ファイルを前に、息を呑んで座っていた。
「……再生するよ」
僕がマウスをクリックすると、画面に映像が映し出された。
結城さんが制作したミュージックビデオは、本当に素晴らしい出来栄えだった。
モノクロの灰色の世界。
そこを一人で歩く少女のシルエット。
曲が進むにつれて、少女が見上げた冬の夜空に一つの星。
――北極星が輝き、そこから波紋のように世界が鮮やかな色に染まっていく。
僕たちのユニット名『Polaris Echo』の世界観と、この曲に込められた想いが、これ以上ないほど美しく表現されていた。
曲が終わると、三人の中にしばらく沈黙が落ちた。
「すごい……結城さん、これ、本当にすごいよ。プロの動画にしか見えない」
「ふふ、お褒めいただき光栄です。ですが、映像をここまで引き上げているのは、間違いなく灰原さんの楽曲と、凛の歌声ですよ。本当に、魔法みたいなシナジーです」
結城さんが満足げに眼鏡を押し上げる。
実は『ダチA』という名義は、ネット上ですでに僕たちが想像する以上に圧倒的な知名度を誇っている。
彼女の高い動画編集技術と洗練されたセンスは、今やトップクラスの有名アーティストたちもこぞってMV制作を依頼するほどだ。
そんな超有名クリエイターが、クラスメイトの大人しい女子生徒であり、今、僕の部屋のソファで微笑んでいるという事実は、何度考えても現実味がなかった。
冬峰さんは無言のまま、画面を食い入るように見つめていた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「冬峰さん? どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。ただ、本当に私たちがこれを作ったんだなって思ったら、少しだけ……」
冬峰さんは目元を拭い、僕に向かって真っ直ぐに微笑んだ。
「灰原くん、ありがとう。私を見つけてくれて」
「それはこっちのセリフだよ。君が、僕の曲を拾い上げてくれたんだ」
僕たちは互いに照れくさくなって視線を逸らした。
「さあ、感動に浸るのはこの辺にして、いよいよ投稿しましょう。プラットフォームへのアップロード準備は整っています」
結城さんの言葉で、一気に現実へと引き戻される。
アップロード画面に動画ファイルを設定し、タイトルと概要欄を入力する。
タイトル:Polaris Echo 『Rewrite』
歌:フユ
作詞・作曲・編曲:タラ
動画・イラスト:ダチA
「灰原さん、最後の投稿ボタンは、あなたが押してください」
結城さんが僕にマウスを譲る。
僕はマウスに手を伸ばしたが、指先が微かに震えていることに気がついた。
怖い。
一度はネットの海の冷たさに心を壊され、逃げ出した場所だ。
『量産型の曲だな』
『心がない作品だよね。才能ないんじゃない?』
中学生の頃に投げつけられた、あの無責任で鋭い言葉たちがフラッシュバックし、胃の奥がせり上がるような不快感に襲われる。
もし、この曲も同じように否定されたら?
僕の才能のなさが、冬峰さんの圧倒的な歌声まで汚してしまったら?
「……灰原くん」
不意に、僕の震える右手に、温かいものが重なった。
冬峰さんの手だった。
彼女は僕の手に自分の手を添え、優しく、けれど力強く包み込んでくれた。
「大丈夫。私がいるわ」
冬峰さんは僕の目を真っ直ぐに見つめ、絶対的な自信に満ちた声で告げた。
「誰がなんと言おうと、この曲は最高よ。私の魂を乗せた、世界で一番美しい音なんだから。……だから、自信を持って」
彼女の体温が、手から僕の中へと流れ込んでくる。
氷の令嬢と呼ばれる彼女の手は、驚くほど温かかった。
その温もりが、僕の心にまとわりついていた恐怖の鎖を、ゆっくりと溶かしていく。
「……うん。そうだね。行くよ」
僕は小さく頷き、冬峰さんの手が重なったまま、人差し指に力を込めた。
カチッ、という小さなクリック音が部屋に響く。
画面のプログレスバーが伸びていき、やがて『アップロードが完了しました』という文字が表示された。
僕たちの新しい旋律が、ネットの海へと放たれた瞬間だった。
カクヨムでも同作品を先行して投稿しております。
先が気になった方はそちらもご覧ください。




