6.行ってらっしゃいと、静かな山
――別れというのは、いつも朝にやってくる。
夜には決意していたことが、朝の光の中では少し重くなる。
それでも朝は来るし、人は歩き出す。
――ただ、振り返りたくなることがある。
◇ ◇ ◇
出発は、朝食のあとと決めていた。
ラルスが荷物をまとめると言っても、もともとほとんど何もなかった。山に入るときに持っていた装備の大半は、黒禍熊との戦闘で失っていた。残ったのは剣と、革の鞄と、中に入っていた小さな羅針盤だけだ。
リヴが包みを差し出した。
「道中用。パンと干し果物と、あと胃薬」
「……胃薬は要らない」
「要るでしょ、たぶん」
断言された。ラルスは受け取った。反論できなかった。
「あと、これも」
もう一つ、小さなものを手渡された。親指ほどの大きさの、水晶の欠片だった。薄く青みがかっていて、朝の光を受けてほんのりと輝いている。
「山のおまじない。精霊ちゃんたちが込めてくれたやつ。危ないとき、少し助けてくれると思う」
ラルスはその水晶を、しばらく手のひらで見ていた。
――昨日、形見箱の中で見た水晶と、同じ色をしていた。
「……もらっていいのか。大切なものでは」
「大切なものだから、あげるんだよ」
リヴはあっさりと言った。
ラルスは返す言葉を探したが、見つからなかった。見つかるより先に、その水晶を鞄の中に、丁寧にしまった。
「ありがとう」
「うん。気をつけてね」
◇ ◇ ◇
小屋の前で、ラルスは一度振り返った。
リヴが軒先に立っていた。草色のエプロンを外して、いつもの薄い上着のままで、両手をゆるく前に組んでいる。銀の髪が朝風に揺れていた。
笑っていた。いつものふわりとした笑顔で、ただ、ラルスを見ていた。
「行ってらっしゃい」
ごく自然に、そう言った。
ラルスは一瞬、その言葉に足を止めた。
行ってらっしゃい、という言葉は、また戻ってくることを前提にした言葉だ。行ってきますに対する返事だ。ラルスは行ってきますと言っていないのに、リヴはそう言った。
無意識なのだろう。リヴにとって、またラルスが来ることは、疑う余地のない前提なのかもしれない。
「……ああ」
ラルスは短く答えて、山を下り始めた。
十歩、二十歩。木立の間に入っていくにつれて、小屋が見えなくなっていく。最後に一度だけ振り返ると、まだリヴが同じ場所に立っていた。手を振っていた。小さく、ゆっくりと。
ラルスは振り返さなかった。
振り返したら、もう少し止まってしまいそうだったから。
◇ ◇ ◇
ラルスが見えなくなったあと、リヴはしばらく同じ場所に立っていた。
木立の向こうを見ていた。もう何も見えない。足音も聞こえない。山はいつも通りの静けさに戻っていた。
――にぎやかだったな。
そんなことを、ぼんやりと思った。
五日間、話し相手がいた。朝ごはんを二人分作った。薬を一緒に作った。星の名前を教えてもらった。それだけのことだったけれど、今になって、それが当たり前でなかったと気づく。
「……さみしいね」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
風が揺れた。足元の瘴気が、ふわりとリヴの裾を撫でた。木立のどこかで精霊が鳴いた。慰めるような、小さな音だった。
「ありがとう」
リヴは精霊に向かって言って、それから小屋へ引き返した。
台所に入ると、昨夜洗って伏せておいたカップが二つ、並んでいた。
リヴは一つを棚に戻した。
もう一つは、そのままにしておいた。
――また来てくれるって言ってたから。
それだけのことだった。ただそれだけの理由で、リヴはカップを一つ、出したままにしておいた。
今日の薬草摘みは午後にしよう、とリヴは思った。午前中は、封印の点検でもしておこう。北側のあのあたりが、また少し気になっていた。
いつもの一日が、また始まっていく。
ただ少しだけ、山の静けさが、昨日より広く感じた。
◇ ◇ ◇
山を下りるのに、半日かかった。
瘴気の濃い区域を抜けると、空気が変わった。軽くなる、というより、何かが薄まる感じがした。五日間、あの濃い瘴気の中で過ごしたせいで、感覚が山に慣れてしまっていた。
ふもとの村が見えてきたとき、ラルスは立ち止まった。
村は小さかった。家が十数軒、畑が広がって、井戸が一つ。特別なものは何もない、辺境の村だ。
――ここの子どもたちに、リヴの薬が届いた。
村の入り口の木に、小さな布が結んであった。白い布に、拙い文字で何かが書いてある。近づいて読むと、こう書いてあった。
――山のお薬ありがとう。子どもたちが元気になりました。
ラルスはしばらく、その布を見ていた。
リヴが言っていた。手紙をもらっている、それで十分だと。
――精霊が届けた薬の礼を、村人たちはこうして山に向けて残している。リヴがこれを見ているかどうかも、わからないのに。
ラルスは村を迂回した。王都の騎士が村に立ち寄れば、目立つ。今は目立ちたくなかった。
街道に出て、王都に向かって歩き始めた。
◇ ◇ ◇
街道は歩きやすかった。山とは違い、足元が平らで、瘴気もなく、日差しが明るい。
なのに、ラルスの足は妙に重かった。
歩きながら、考えていた。王都に戻ったら何をすべきか。兄王子の動向を確認する。この山への王国の関心を、できる限り遠ざける工作をする。失踪の言い訳を考える。それだけでも、やることは山積みだ。
なのに、頭の中に別のものが混じってくる。
――行ってらっしゃい、と言った声。
――手を振っていた姿。小さく、ゆっくりと。
――出したままにしてあるカップが、あの小屋にあるのだろうか。
ラルスは立ち止まった。
街道の脇に、大きな木があった。その根元に腰を下ろして、鞄から水を取り出した。一口飲んで、空を見上げた。
晴れた空だった。雲が少ない。山の方角を見ると、黒霊廟山の頂がうっすらと霞んで見えた。いつも通り、霧をまとっている。
ラルスは鞄の中を探って、水晶の欠片を取り出した。
手のひらに乗せると、青みがかった光がほんのりと滲んだ。精霊が込めたという力が、まだそこにある。温かいわけではないのに、なぜか温かい気がした。
――大切なものだから、あげる。
そう言ったリヴの顔を、思い出した。
あの顔は、いつものふわりとした笑顔ではなかった。もう少し、真剣な顔だった。
ラルスは水晶を握った。
――俺は、あの少女のことが、心配だ。
それだけではない、という気もしたが、今はそこまでにしておいた。
――心配だ。だから戻る。それだけだ。
木の根元から立ち上がった。水晶をそっと鞄にしまって、また歩き始めた。
王都まではまだ遠い。急がなければならない。やることが多い。
でも今は、歩きながら少しだけ、別のことを考えていた。
次に来るときは、何を持っていこう。
山には売っていないものがあるはずだ。本か。地図か。それとも、王都の菓子か。
――星の本があれば、喜ぶかもしれない。
カレイア。セルン。リア。繰り返したあの声を、ラルスはまだ鮮明に覚えていた。
街道を歩く足が、少しだけ軽くなった気がした。
◇ ◇ ◇
その夜、ラルスは街道沿いの宿に泊まった。
久しぶりの、ちゃんとした寝台だった。山の長椅子より、ずっと柔らかい。なのに、なかなか寝付けなかった。
天井を見ていた。木の天井だが、木彫りの精霊はいない。
窓の外に星が見えた。ルアの星が、今夜も正北の方角で光っていた。
――あの山から見た星と、同じ星だ。
――リヴも今夜、この星を見ているだろうか。
そう思って、ラルスは自分に少し呆れた。
五日間、一緒にいただけだ。薬草を摘んで、スープを飲んで、星の名前を話しただけだ。それだけのことが、これほど頭に残っている。
――どうしようもない、と思う。
――どうしようもなく、気になっている。
ラルスは目を閉じた。
王都に戻ったら、することが山ほどある。王子としての責務がある。兄の動きを封じなければならない。
それはわかっている。全部わかっている。
それでも今夜だけは、星の本の選び方を考えながら、眠ることにした。
黒霊廟山では、今夜も月が出ていた。
リヴが縁側から空を見上げて、カレイアの三つ星をひとりで数えていたことを、ラルスはまだ知らない。
こんにちは。八咫です。
人生で初めて小説にチャレンジしています。
誤字脱字なども多々あるかもですが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。




