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辺境の月姫は、今日ものんびり人を救う  作者: 八咫


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5.ひとつの約束



―嘘をつくのが下手な人間は、二種類いる。


顔に出てしまう人間と、言葉に出てしまう人間だ。


ラルスは両方だった。ただし本人はそれを、まだ認めていなかった。




◇ ◇ ◇




五日目の朝は、晴れていた。


リヴが川へ水を汲みに行くと言ったので、ラルスもついていった。傷はほぼ塞がっている。斜面を下りるくらいは問題ない。


山の川は細く、冷たく、底が透けて見えるほど澄んでいた。岸の石が苔むしていて、近づくと水音が思ったより大きい。リヴは慣れた手つきで桶を沈めて、水を汲んだ。


ラルスはその横に立って、川の流れを見ていた。


「ラルスくんって、王都から来たの?」


不意にリヴが聞いた。


ラルスはわずかに間を置いた。


「……なぜそう思う」


「星の名前、全部知ってたから。航海士が使う星の呼び方は、王都の学者が整理したやつらしいって、おばあちゃんが言ってた」


ラルスは川を見た。水面が朝の光を受けて、細かく揺れている。


「……そうだ、王都から来た」


「へえ〜。王都って行ったことないんだよね。大きいの?」


「大きい。この山が五つは収まる」


「そんなに!」


リヴが目を丸くした。その反応が、どこか子どものようで、ラルスは少し目を細めた。


「騒がしいぞ。人が多い分だけ」


「そっかー。にぎやかそうだね」


にぎやかそう、という言い方が、王都を一度も見たことのない人間の感想だとわかる。悪意がないから、嫌みにも聞こえない。


「お前は、王都に行ってみたいか」


リヴは桶を持ち上げながら、んー、と考えた。


「おばあちゃんが生きてたら、一緒に行ってみたかったかも。今は……どうかな。あんまり人が多いとこ、ちょっと自信ないな」


「人が苦手か」


「苦手というか、よく知らないんだよね。ふもとの村の人たちも、会ったことないし」


それはそうだ。この山で生まれ育って、三年間一人でいた。精霊や魔物とは付き合えても、人間とはほとんど接したことがない。


――この五日間が、リヴにとってはめずらしい経験なのかもしれない。


ラルスはリヴの桶を受け取った。


「持つ」


「あ、でも傷が」


「これくらいは問題ない」


リヴは少し迷ってから、桶を渡した。


「ありがとう」


並んで斜面を上がりながら、ラルスはさっきのリヴの言葉を考えていた。


――おばあちゃんが生きてたら、一緒に行ってみたかったかも。


その「かも」の重さを、リヴは自分でわかっているだろうか。




◇ ◇ ◇





午後、リヴが「ちょっと見せたいものがある」と言った。


連れていかれたのは、小屋の裏手の、少し開けた場所だった。大きな岩が三つ、円を描くように並んでいて、その中心に古い木箱が置いてあった。苔が少しついているが、丁寧に手入れされているのがわかる。


「おばあちゃんの形見箱」


リヴが静かに言った。


「今日、久しぶりに開けようと思って。一人で開けると、なんか寂しいから、ラルスくんにも来てもらった」


ラルスは何も言わなかった。言うべき言葉が見つからないのではなく、何も言わないほうがいい気がした。


リヴが木箱の蓋を開けた。


中には、いくつかのものが入っていた。小さな水晶の欠片。古びた手帳。乾燥した花が一輪。そして、折り畳まれた一枚の紙。


リヴはそれらを一つ一つ、ゆっくりと手に取った。水晶を光にかざすと、虹色の光が散った。手帳は開かずに、ただ表紙を撫でた。花は崩れないように、そっと指先でふれた。


最後に、紙を広げた。


目で追いながら、リヴの顔が少しだけ変わった。困ったような、でも温かいような、複雑な表情だった。


「何が書いてある」


ラルスが聞くと、リヴはその紙をラルスに見せた。


達筆な文字で、短く書いてあった。


――リヴへ。いつかこの山を出る日が来たら、怖がらないでいなさい。あなたはどこへ行っても、きっと大丈夫。おばあちゃんより。


ラルスは黙って読んだ。


「……おばあちゃんらしい」


リヴが苦笑いのような顔をして言った。


「結局、出ていきなさいとも、いなさいとも言わないんだよね。どっちでも決めていいよって、ずっとそういう人だった」


「……いい人だったんだな」


「うん」


リヴは紙をもう一度丁寧に折り畳んで、箱に戻した。他のものも元通りにして、蓋を閉める。


しばらく、二人は岩の前に並んで立っていた。


風が吹いた。木々が揺れた。どこかで鳥が鳴いた。


「ラルスくん」


「なんだ」


「王都に、帰るんだよね」


「……ああ」


「じゃあ、王都の話、今度してよ。どんなとこか、もう少し聞きたい」


ラルスは、リヴを見た。


「今度」という言葉を、さらりと使った。また来る、ということを前提にした言葉だ。それをリヴは何も考えずに使った様子だったが、ラルスには、その一言がどこか温かく刺さった。


「……また来るとは限らないぞ」


「来るでしょ」


リヴは断言した。


「なぜそう思う」


「なんとなく」


根拠のない自信だった。だがその顔があんまりにもあっさりしているので、ラルスは否定する気を失った。


――来る。おそらく、来る。それはラルスにも、うっすらわかっていた。




◇ ◇ ◇




夕暮れが来たころ、ラルスは縁側で一人、剣の手入れをしていた。


台所からリヴが夕食の支度をする音が聞こえてくる。今日は何を作っているのだろうか。いつの間にか、そういうことを自然に気にしている自分がいた。


剣の刃を布で拭いながら、ラルスは今日考えていたことの続きを、静かに整理した。


――この山のことを、王国に報告しないと決めた。


――封印の存在も、瘴気の管理者の存在も、ひとまず自分の胸だけに留める。


それが正しい判断かどうかは、わからない。王子として、騎士として、正しくないかもしれない。だがこの少女の穏やかな日常を、知らぬ間に終わらせるよりは、まだましだと思った。


問題は、帰ったあとだ。


王都には兄王子の動きがある。いくつかの不穏な噂がある。ラルスがこの山を調査しに来たのも、瘴気の漏れを王国が把握する前に自分で確かめたかったからだ。最悪の場合、王国がこの山に目を向ける。そうなれば、リヴの存在が明るみに出る。


――それを防ぐためには、戻って手を打たなければならない。


剣が磨き上がった。刃に夕陽が映った。


ラルスは久しぶりに、はっきりとした目的を持った気がした。守るべきものが、輪郭を持って現れたような感覚だった。


「ラルスくん、ご飯できたよ〜」


台所からリヴの声がした。


「今日はスープとパン、あと昨日の炒め物の残り!」


「……わかった」


ラルスは剣を鞘に納めて、立ち上がった。




◇ ◇ ◇




食事を終えて、二人がお茶を飲んでいるとき、ラルスは口を開いた。


「明日、帰る」


リヴはカップを両手で包んで、ふうんと頷いた。


「傷、もう大丈夫?」


「お前の薬のおかげで、問題ない」


「そっか。よかった」


あっさりしている。引き止めない。泣かない。当たり前だが、それがかえってラルスには妙な重さで届いた。


「リヴ」


「なに?」


「一つ、聞いてほしいことがある」


リヴがラルスを見た。いつもより少し、まじめな声だと気づいたのかもしれない。


「この山のことを、俺以外の人間に話すな」


「……山のこと?」


「封印のことも、瘴気のことも、お前の魔法のことも。誰かが聞いてきても、知らないと言え。精霊のことを、訪ねてくる人間がいても、できるだけ関わるな」


リヴは少し首を傾けた。


「なんで?」


ラルスは答えに少し迷って、でも嘘をつく気にはなれなかった。


「お前が、危ないことに巻き込まれたくないからだ」


リヴは瞬いた。


ぱちぱちと、二度。


「……わたしのために?」


「そうだ」


リヴはしばらく、ラルスを見ていた。その顔に、いつものゆるい笑みはなかった。何かを確かめるように、静かにラルスを見ていた。


それから、やわらかく笑った。


「わかった」


「本当にわかったか」


「わかったよ。気をつける」


いつもより少し、真剣な声だった。リヴなりに、受け取ったのだとわかった。


ラルスは頷いた。


「俺も、約束する」


「何を?」


「この山のことを、俺から誰かに話すことはしない。お前の穏やかな日々が続くように、できることをする」


リヴはもう一度、ラルスを見た。


今度は、少し長く見ていた。


「……ラルスくん、やっぱりいい人だね」


「そうでもない」


「そうだよ」


断言された。ラルスは言い返せなかった。


リヴがカップを傾けて、お茶を飲んだ。


「じゃあわたしも、一個だけ」


「なんだ」


「また来てね。今度は怪我してないときに」


ラルスは一瞬、返事に詰まった。


そして、


「……ああ」


と答えた。


短い返事だったが、嘘ではなかった。約束だった。


夜の山が、静かに二人を包んでいた。窓の外でルアの星が光っていて、カレイアの三つ星が並んでいた。リヴが昨夜覚えたばかりの星たちが、今夜も同じ場所にある。


「ラルスくん」


「なんだ」


「来てくれて、よかったよ」


まっすぐな声だった。


ラルスは答えなかった。答える代わりに、窓の外の星を見た。


――俺も、そう思っている。


それは声に出なかったが、嘘ではなかった。




こんにちは。八咫です。

人生で初めて小説にチャレンジしています。

誤字脱字なども多々あるかもですが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。


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