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辺境の月姫は、今日ものんびり人を救う  作者: 八咫


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4.もう少しだけ


◇ ◇ ◇



決断というのは、たいてい理屈より先に出てくる。



理屈はあとからやってきて、もっともらしい顔をして並ぶだけだ。



――ラルスは、それを今日初めて自分のこととして理解した。




◇ ◇ ◇




朝、目が覚めたとき、答えはもう出ていた。


もう少し、ここにいる。


理由を探せばいくらでも出てくる。傷がまだ完全ではない。山の封印の詳細を確認する必要がある。瘴気の流れを観測するには数日のデータがいる。どれも嘘ではない。


ただし、どれも本当の理由ではない。


――この少女を、もう少し見ていたい。


それだけだった。それだけのことが、ラルスには珍しく、どうにも抗えなかった。


台所からパンの焼ける匂いがした。ラルスは毛布をはねのけて、起き上がった。





◇ ◇ ◇





「あれ、今日帰るんじゃなかったの?」


朝食のとき、リヴが聞いた。責めているわけでも、引き止めているわけでもない。ただ純粋に疑問、という顔だった。


ラルスは少し間を置いた。


「……封印の観測を、もう数日したい」


「封印?」


「山の瘴気の漏れ具合を調べるために来た。まだデータが足りない」


リヴはふうんと頷いた。


「そっかー。じゃあもう少しいていいよ」


あっさりと言って、パンをちぎった。


「でも封印のこと調べたいなら、わたしに聞いたほうが早いんじゃない?おばあちゃんから全部教わったから、たぶん何でも答えられるよ」


ラルスは返事に詰まった。


――それはそうだ。封印の観測などという理由をつけておきながら、当の管理人に聞けばいい話だ。


「……そうする」


「うん!何でも聞いてね〜」


リヴは満足そうに笑って、蜂蜜をパンに垂らした。


ラルスは静かにスープを飲んだ。


――自分が嘘のつけない人間だと、これほど不便に思ったことはなかった。





◇ ◇ ◇





午前中、二人は縁側に並んで座って、封印の話をした。


リヴが話し、ラルスが聞く。


話の内容は、聞くたびに頭が追いつかなくなるものだった。山全体を覆う封印の規模、それを支える魔力の総量、瘴気を一定の濃度以下に保つための調整の仕組み。どれもが、王国の最高位の術師が束になっても設計できないはずのものを、この少女は「おばあちゃんが作ったんだよ」と当たり前のように説明する。


「メンテナンスはどのくらいの頻度でやるんだ」


「季節の変わり目に一回と、あとは気になったときかな。北側みたいに古くなってきたところは早めに直すけど」


「それは、どこで気づく」


「なんとなく、わかるんだよねー。うまく言えないけど、体がざわざわする感じ?」


リヴは首を傾けて、自分の感覚を言葉にしようとするように少し考えた。


「おばあちゃんは『山と話をするんだよ』って言ってた。最初は意味わかんなかったけど、今はちょっとわかる気がする」


山と話をする。


ラルスはその言葉を、静かに反芻した。精霊と話し、魔物と付き合い、山と対話する。この少女の日常は、王都の誰も想像しない種類の豊かさで満ちていた。


「おばあちゃんは、なぜここに住んでいたんだ」


少し踏み込んだ質問だった。リヴは気にした様子もなく、


「知らない。聞いたこともなかったな」


と言った。


「聞けばよかったかな、とは思うけど。でもおばあちゃん、過去のことあんまり話さない人だったから」


「気にならないか」


「気になるよ。でも、もういないしね」


さらりと言って、リヴは空を見上げた。今日は雲が少ない。


「ラルスくんは、誰かに聞けばよかったって思う人、いる?」


不意打ちの問いだった。


ラルスは答えるまでに、少し時間がかかった。


「……いる」


「そっか」


リヴはそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ目を細めて、空を見ていた。


風が吹いて、山の木々が揺れた。





◇ ◇ ◇





昼過ぎ、リヴが突然「あ」と言った。


台所で薬を仕込んでいたラルスが顔を上げると、リヴが窓の外を見て、眉をひそめていた。珍しい顔だった。


「どうした」


「精霊ちゃんが、ふもとの村で具合悪い人が出てるって」


ラルスは立ち上がった。


「瘴気か」


「ちがう、熱だって。子どもが何人か。たぶん季節の変わり目の風邪だと思うけど、高くなってるみたい」


リヴはすでに棚に向かっていた。瓶を次々と取り出して、手慣れた様子で確認していく。


「解熱薬、先週仕込んだのがあるから……。あと、子どもには飲みやすいほうがいいな。少し調合を変えよう」


独り言のように言いながら、てきぱきと動いている。


ラルスは何か手伝えることはないかと思ったが、薬の知識はない。せめて、と思って、


「薬草を刻もうか」


と言った。リヴが振り向いて、ぱっと顔を明るくした。


「ほんと?助かる!これとこれを、細かく」


二種類の薬草を渡された。ラルスは言われた通りに刻んだ。剣を扱う手は、案外細かい作業にも向いていた。


台所に二人分の気配があった。リヴが混ぜる音と、ラルスが刻む音が重なる。窓から午後の光が差し込んでいた。


「ラルスくん、上手だね」


リヴが横を見て言った。


「刃物の扱いは慣れている」


「騎士さんだもんね」


「……そうだ」


短い沈黙。リヴは何も追求しなかった。ただ、また作業に戻りながら、


「ありがとう、助かってる」


と言った。


ラルスはその言葉に、妙な居心地のよさを感じた。感謝されることは珍しくない。だがこれほど飾りのない感謝を、久しぶりに受け取った気がした。


◇ ◇ ◇

薬が完成したのは夕方前だった。


リヴは小瓶を三本、布で包んで窓の外に置いた。しばらくすると、包みがふわりと浮いた。空気が揺れて、光の粒のようなものが集まって、それが山の斜面を下っていった。


精霊が、運んでいる。


ラルスはその様子を黙って見ていた。


「子どもたちに届くといいね」


リヴがつぶやいた。心配している顔だった。いつものふわりとした笑顔ではなく、眉が少し寄っている。


――この少女は、会ったこともない村の子どもたちのために、昼過ぎから薬を作り続けた。


――それを、当たり前のことのようにやった。


「リヴ」


「なに?」


「……ふもとの村人たちは、この薬がどこから来るか知っているのか」


リヴはゆるく首を振った。


「知らないと思う。精霊ちゃんたちが持ってくるから、山から来てるのはわかってるかもしれないけど」


「感謝を受け取らなくていいのか」


リヴは少し考えてから、


「んー……手紙、もらってるよ?」


と言った。


「山のお薬ありがとうって書いてある。それで十分だよ」


十分、と言う顔が、本当に満足そうだった。


ラルスはしばらく何も言えなかった。


名も知られず、顔も知られず、ただ薬を送り続ける。三年間、それだけをやってきた。この山で、一人で。


――伝説、という言葉がある。


――伝説とは本来、誰かの口から口へ伝わって生まれるものだ。だがこの少女は、伝わることすら望んでいない。


ラルスは窓の外を見た。精霊の光がもう見えなくなっていた。夕陽が山の稜線に沈みかけていた。


「腹が減った」


ラルスが言った。


リヴが振り向いた。


「あ、そうだね!今日は何にしようかな〜、昨日鍋だったから……」


考えながら台所へ向かうリヴの後ろ姿を見て、ラルスは思った。自分が腹が減ったと言ったのは、リヴに何かを言いたかったからではなく、何も言えなかったから話題を変えたのだと。


それが少しおかしくて、ラルスは、


ふ、と息を漏らした。





◇ ◇ ◇





夕食は野草の炒め物と、焼いた魚だった。山の川で獲れる魚は小さいが、リヴの料理は素朴な分だけ素材の味がよくわかる。


食べながら、リヴがふと言った。


「ねえ、ラルスくんって笑うの?」


ラルスは箸を止めた。


「……何が言いたい」


「ずっと真顔なんだもん。四日いて、一回も笑うとこ見てないな、と思って」


悪意はない。純粋な疑問だ。それがわかるから、ラルスは怒る気にもなれなかった。


「……笑わないわけではない」


「でも笑わないでしょ、たいてい」


「……そうかもしれない」


リヴはうーんと考える顔をした。


「もったいないな」


「何が」


「だってラルスくん、顔いいじゃん。笑ったらもっとすごいと思うんだけど」


ラルスは、一瞬固まった。


リヴはもう魚に戻っていて、言ったことを特に気にしていない様子だった。感想を言っただけ、というような顔をしている。


――顔がいい。そう言われたことがないわけではない。だがこれほど飾りなく、しかも「もったいない」という文脈で言われたのは初めてだった。


ラルスはしばらく黙っていたが、やがて、


「……お前も、人のことは言えないだろう」


と言った。


リヴが顔を上げた。


「え、わたし?」


「お前の顔で、こんな山の中で一人で薬草を摘んでいるのは、たしかにもったいないかもしれない」


リヴはぱちぱちと目を瞬いた。


それから、くすくすと笑い出した。


「なにそれ、褒めてる?」


「褒めている」


「まじめな顔して言うんだね」


「まじめに言っている」


リヴがまた笑った。今度はもう少し大きく、肩まで揺れて笑った。


それを見て、ラルスの口元が、ほんのわずかに動いた。


笑った、というより、笑みが出てしまった、という感じだった。止めようとしたが、止める理由も特になかったので、そのままにした。


リヴが笑いながらラルスの顔を見て、ぴたりと止まった。


「……やっぱり」


「何が」


「すごいじゃん」


まっすぐそう言って、リヴはまた魚を食べ始めた。


ラルスは返事をしなかった。するべき言葉が、なかった。


窓の外に夜が来ていた。昨夜と同じ星が、同じ場所で光っている。ルアの星が、正北の方角で静かに輝いていた。


王都の方角だ。


今夜は、そちらをあまり見たくない気持ちがあった。


ラルスはそのことに、少しだけ、気づいていた。




こんにちは。八咫です。

人生で初めて小説にチャレンジしています。

誤字脱字なども多々あるかもですが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。


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