3.帰れない理由
帰らなければならない理由は、いくらでも挙げられた。
でも帰れない理由は、たったひとつしかなかった。
――それは傷のせいではない、とラルスはうっすら気づき始めていた。
◇ ◇ ◇
三日目の朝、雨は上がった。
ラルスは夜明け前に目を覚まして、しばらく天井を見ていた。木彫りの精霊たちが、暗がりの中でぼんやりと輪郭を見せている。窓の外に星が残っていた。山の星は、王都で見るものより大きく、多い。
傷の具合を確かめた。動かせる。痛みはある。だが昨日よりずっと軽い。
――そろそろ帰れる。
その思考が、妙にすっきりしない。
帰らなければならない理由は明確だ。失踪した王子を捜索する部下がいる。王都では兄王子が何かを企んでいる気配があった。そもそもこの山への調査だって、正式な命令ではなく、ラルス自身が単独で判断して踏み込んだものだ。
なのに。
――この山を、リヴ一人に残していく気になれない。
ラルスは目を閉じた。三日間で知ってしまいすぎた。瘴気の除去、規格外の治癒、山全体の封印。そのどれもが、王国の誰かに知られれば、この少女の穏やかな日常を終わらせるに足るものだった。
奥の部屋の扉が、静かに開く音がした。
リヴが台所に入っていく気配がした。やがて火を熾す音と、水を注ぐ音がした。
ラルスは目を開けた。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、リヴは「今日は薬草を採りに行く」と言った。
「俺も行く」
ラルスが言うと、リヴは少し考えてから、
「脇腹、大丈夫?」
と聞いた。
「歩くくらいは問題ない」
「じゃあいいよ〜。でも重いもの持たないでね、あと走らないでね、あと急な斜面は任せてね」
「……わかった」
条件が多い、とは思ったが、いちいち反論する気にもなれなかった。
山の朝は澄んでいた。昨日まで降り続いた雨のせいで、地面がしっとりと湿っている。木々の葉が雨粒を溜めていて、歩くたびに光が散る。瘴気は相変わらず低く漂っているが、ラルスはもう気にしなくなっていた。リヴがそばにいる限り、この瘴気が体に入り込むことはないのだと、三日で学んだ。
リヴは小さな籠を背負って、慣れた足取りで斜面を下りていく。草履一枚で岩を渡り、なんでもない顔で倒木を越える。小柄な体のどこにそれだけの均衡感覚があるのか、ラルスには不思議だった。
「あ、いた」
リヴが立ち止まって、しゃがんだ。足元に白い花が群生している。シラ菊だ、とラルスも三日で覚えた。
丁寧に、根元から摘んでいく。傷をつけないように。葉を折らないように。その手つきは、薬草を扱うというより、小さな生き物を撫でているようだった。
ラルスは少し離れたところに立って、周囲を見ていた。この山には人を喰う魔物が棲む。三日間小屋にいたので実感が薄れていたが、ここは死地だ。
木立の向こうで、枝が揺れた。
ラルスは腰の剣に手をかけた。瘴気の濃さが急に変わった。大きな何かがこちらに近づいている。
黒い影が、木々の間から現れた。
巨大だった。肩の高さだけで、ゆうに二メートルはある。漆黒の体毛は光を吸い込むように艶消しで、鈎爪は岩をも砕く。赤い複眼が、こちらをじっと見ている。
黒禍熊だ。
ラルスは剣を抜いた。傷が痛んだが、関係なかった。
「あ、くまさん!」
リヴが明るく立ち上がった。
黒禍熊が止まった。
リヴがとたとたと駆け寄っていく。ラルスは「待て」と言おうとして、声が出なかった。
「昨日ね、ラルスくんを傷つけたでしょ。ちゃんと謝ってね?」
リヴが、黒禍熊を見上げて言った。
黒禍熊が、低くうなった。
ラルスの手が、剣の柄を握ったまま止まった。
「ちゃんと目を見てね」
リヴが、当然のように言う。黒禍熊の巨大な頭が、ゆっくりと下がった。赤い複眼がラルスに向いた。低く、もう一度うなり声が鳴る。それから、頭がさらに下がった。
――お辞儀、だった。
あの黒禍熊が。クレーデン王国史に「撃退不可能」と記録された魔物が。
ラルスはゆっくりと剣を鞘に納めた。納める以外のことが思いつかなかった。
「よしよし、えらいね〜」
リヴが黒禍熊の鼻先をぽんぽんと叩いた。鼻先だけでリヴの頭ほどある。黒禍熊は目を細めた。
「じゃあね、また見回りよろしくね」
黒禍熊はもう一度低くうなって、木立の中に消えた。
静寂が戻ってきた。
リヴが振り返った。
「怖かった?ごめんね、急で」
「……怖くはない」
これは事実だった。怖いというより、頭が追いついていなかった。
「くまさん、ちゃんと謝れてよかった。あの子、素直なんだけど不器用でさ」
不器用。
ラルスは剣の柄から手を離した。
胃薬は今朝飲んでいた。効いている。のはずなのに。
◇ ◇ ◇
薬草採りが終わったのは昼をだいぶ過ぎたころで、二人は山の中腹の岩場に腰を下ろした。リヴが持ってきた包みを開くと、固いパンと干し果物が入っていた。
山の景色は遠くまで見えた。霧が晴れた日は、遠くにクレーデン王国の平野が望める。緑の濃淡が広がって、その向こうに王都の塔がうっすらと見える気がした。
ラルスはそちらをしばらく見ていた。
「ラルスくん、帰りたい?」
リヴが、干し果物を噛みながら聞いた。
ラルスは少し間を置いた。
「帰らなければならない場所はある」
「そっか」
リヴはそれだけ言って、また果物を口に入れた。引き止めるでも、惜しむでもない。ただ「そっか」と言った。
その淡白さが、なぜかラルスの胸に引っかかった。
「お前は、ここから出たいと思ったことはないか」
リヴは少し考えた。山を見るともなしに眺めながら、ゆっくりと。
「んー……ないかな、今のとこ」
「淋しくはないのか。一人で」
「精霊ちゃんたちがいるし、くまさんもいるし」
「人間が、だ」
リヴが、少し止まった。
ほんの一瞬だったが、ラルスにはわかった。その一瞬に何かがあった。
「……たまにはね」
リヴは、さらりと言った。でも今度は「だいじょーぶだよ〜」とは続けなかった。
ラルスは何も言わなかった。
風が吹いて、リヴの銀の髪を揺らした。霧の晴れた山の上で、その髪は白く光った。
◇ ◇ ◇
小屋に戻ったのは夕暮れ前だった。
リヴが薬の仕込みをするそばで、ラルスは縁側に座って、遠くなっていく夕陽を見ていた。王都の方角だ。
「ラルスくん」
台所からリヴの声がした。
「なんだ」
「あの星、知ってる?」
気がつけば空が暗くなっていた。山の暗さは早い。リヴがいつの間にか縁側に並んでいて、夜空の一点を指さしている。
指の先を見ると、やや青みがかった星が一つ、鮮やかに輝いていた。
「ルアの星だ。航海士が方角の基準にする」
「へえ!ルアっていうんだ」
リヴは嬉しそうに繰り返した。ルア、と小さな声で言って、もう一度その星を見た。
「わたし、星の名前あまり知らないんだよね。おばあちゃんは知ってたんだけど、ちゃんと教わる前に……」
語尾が消えた。
ラルスは星を見たまま、
「他にも教えようか」
と言っていた。
自分でも少し意外だった。
リヴがラルスを見た。それからまた空を見て、
「うん、聞きたい」
と言った。声が少し、やわらかかった。
「あの三つ並んでいるのがカレイアの帯。その右側の赤みがかったものがセルン。航海図には必ず描かれる」
「カレイア、セルン」
リヴは静かに繰り返した。覚えようとしている。
「北の端、一番明るいのはリア。あれが見える方向が正北だ」
「リア……。なんか、かわいい名前だね」
ラルスは少しだけ、口元がゆるんだ。それを気づかれないように、夜空に視線を戻した。
しばらく、二人は黙って星を見た。
虫の声がしていた。遠くで何かの魔物が鳴いたが、リヴは気にしなかった。だからラルスも気にしなかった。
「ラルスくんは、星が好き?」
「……どうだろうな。好きかどうか考えたことがなかった」
「なんで知ってるの、そんなに」
「教わったから」
誰に、とは言わなかった。リヴも聞かなかった。
「わたしはね、好きだよ。夜晴れた日は、いつも見てた。おばあちゃんと一緒に」
リヴの声は静かだった。悲しそうではなく、ただ静かだった。
ラルスは何も言わなかった。
言葉が見つからなかったわけではない。ただ、今は何も言わないほうがいい気がした。
星が、また一つ増えた気がした。目が慣れるにつれて、空の星の数が増えていく。黒霊廟山の夜空は、これほど星が多かったのか。三日間、夜はずっと雨だったから、知らなかった。
「きれいだね」
リヴがつぶやいた。
「……そうだな」
ラルスは答えた。
星を見ていた。星だけを見ていた。
それでも視界の端に銀の髪が揺れていて、なぜかそちらから目が離せなかった。
◇ ◇ ◇
夜が更けて、リヴが「おやすみ」と言って奥の部屋に消えた。
ラルスは暗くなった居間で、しばらく一人でいた。
傷の具合を確かめた。明日には動いても問題ない程度になるだろう。明後日には、帰れる。
――帰らなければならない。
――それでも。
ラルスは目を閉じた。
星の名前を教えたとき、リヴが繰り返した声が耳に残っていた。カレイア。セルン。リア。一つひとつを大事そうに口にしていた。
――この少女は、ひとりで三年間、それをやってきた。
――山を守りながら、精霊と話しながら、誰にも知られないまま。
ラルスは静かに息を吐いた。
決めていないことがある。帰るまでに、決めなければならないことがある。
この山のことを、王国に報告するかどうか。
この少女のことを、誰かに話すかどうか。
窓の外では星が輝いていた。ルアの星が、正北の方角で光っている。
ラルスは長椅子に横になって、目を閉じた。
答えは、翌朝には出ていた。
ただしそれは、ラルス自身が予想していたものとは、少し違う形をしていた。
こんにちは。八咫です。
人生で初めて小説にチャレンジしています。
誤字脱字なども多々あるかもですが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。




